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第四十九部 命令が二つになり、金貨千枚の首へ視線が集まる話 ① 西門の歯車と、二つになる命令


 儀礼待合室の扉を開けると、白鷹門の中央広場へ滞留していた匂いが、一度に押し寄せてきた。


 煮崩れた麦粥の湯気、薬草、濡れた外套、馬の汗、石畳へ零れた油、火鉢へ使われている黒松脂。そこへ、何が起きているのか分からないまま同じ場所へ集められた人間の不安まで混ざり、春先の冷たい風へまとわりついている。


 演壇の前には、家族札を胸元へ抱く女、木椀を両手で持つ子ども、旧村の名を書いた紙を握る老人が並んでいた。少し離れた西門の近くでは、濃い青線の札を渡された働き盛りの男たちが集められ、その間を帝国兵、救恤調整室の書記官、荷役、薬箱を運ぶ者が行き交っている。


 鎖を掛けられた者はいない。


 槍で追い立てられている者も、まだいない。


 だが、高い場所から見れば、広場の形はすでに作られていた。


 演壇の前には、帰還を信じさせるための家族。


 西門の近くには、旧境の外へ先に移すための男たち。


 白鷹旗の周囲には、昔の村名や旧籍を持つ者。


 その左右には、グランデル帝国北方軍の鷲旗。


 門を閉じれば、七百人近い人々を守ることもできる。同じ手順で、七百人を閉じ込めることもできる。


 どちらの出来事として後世へ残すかは、あとから紙へ書けばよい。


「ゆっくり歩け」


 右側から、カミラが低い声で言った。


「歩いている」


「倒れない速度で」


「かなり遅い」


「今のあんたには、それで十分だ」


 カミラの右腕は、俺の背中へ回っている。本人も左肩を痛めているため、決して楽な姿勢ではない。それでも腕を離さず、こちらの歩幅へ合わせて進んでいた。


 近い。


 温かい。


 非常に良い。


 普段なら、どこまで体重を預ければ事故として処理できるか、慎重に検討するところだった。


 だが、今は控える。


 たぶん。


 少しだけ、成長した。


「何を考えている」


 カミラが訊いた。


「かなり真面目なことだ」


「顔が最低だ」


「人の内心を断定するな」


「実績がある」


 正確だった。


 左側では、ハインリッヒ・フォン・ホルマンが中央広場へ視線を走らせながら歩いている。


 トルガウの帝国軍野戦病院で、俺の隣の寝台にいた帝国軍人。退院の時には、補給路で使える帝国語の短文を書いた栞を黙って渡した男である。


 病院では、俺を外国人傭兵ロド・カナリとして見ていた。


 今は違う。


 旧税関詰所で、俺がレオン・ヴァン・リュカリオンだと知った。


 帝国から金貨千枚を掛けられた亡国の王子。


 自分の父の世代が平定した土地の、生き残った名前。


 それでも、ハインリッヒは歩き方を変えなかった。急に敬意を見せることも、憎しみを露わにすることもない。軍監付連絡士官として、ヴァルター軍監の停止命令を白鷹門へ通すために必要なものだけを見ている。


 ただし、俺の足元が一度だけ揺れると、視線を向けずに言った。


「倒れるなら、先に言え」


「病院でも似たことを言われた」


「病院で守らなかったから、今も言っている」


「かなり長い付き合いのように聞こえるな」


「隣の寝台で、歩けると言い張る声を何度も聞かされた」


「歩けた」


「倒れた」


「最終的には」


「倒れた」


 厳しい。


 本当に。


 カミラの口元が、ほんの少しだけ緩む。


「笑った?」


「笑っていない」


「今のは」


「前を見ろ」


 正確だった。



 ◇



 旧五国側へ抜ける西門では、太い鎖と巨大な歯車が低い音を立てていた。


 門の内側へ設置された巻き上げ機の周囲では、兵士が四人ずつ左右へ分かれ、閉鎖用の棒を押している。その正面には、別の兵士たちが立ち、作業を止めるよう命じていた。


「手を離せ!」


「コンラート・ヘスラー大佐の命令だ。西門を閉じる!」


「ヴァルター軍監の停止命令が出ている。移送は保留だ!」


「移送と門の閉鎖は別だ。地下組織の人間を逃がすな!」


「門を閉じれば、旧臣民を拘束することになる!」


 二つの命令。


 二つの理屈。


 どちらにも、グランデル帝国軍の印がある。


 兵士たちはまだ剣を抜いていないが、声は少しずつ荒くなり、槍の向きも、互いの距離も、あと一歩で変わるところまで来ていた。


 人々も異変へ気づき始めている。


 家族札を持つ女が子どもの手を握り直し、老人が演壇と西門を交互に見る。濃い青線の札を持たされた男たちは、門の近くへ集められたまま、何を信じればよいのか分からず立ち尽くしていた。


 誰かが走れば、周囲も走る。


 誰かが剣を抜けば、兵士も抜く。


 七百人近い人間が同じ方向へ押し寄せれば、火がなくても死者が出る。


「ハインリッヒ」


 俺が呼ぶと、軍監付連絡士官は西門から視線を外さずに答えた。


「何だ」


「止められるか」


「軍監の命令は、移送と旧籍照合の停止だ。ヘスラー大佐は、現場の安全確保を理由に西門の管理を続けられる」


「便利だな」


「軍隊は、便利でなければ動かない」


 ハインリッヒは少しだけ目を細めた。


「だが、便利な命令ほど、意味を足されれば危険になる」


 カミラが革袋へ手を掛ける。


「写しを増やす」


「すでに五か所へ貼った」


「足りない」


 カミラは即座に答えた。


「配給所、診療天幕、西門、演壇前、門外の天幕。人の目へ触れる場所へ、さらに貼れ。群衆にも見せる」


 ハインリッヒが、わずかに眉を寄せる。


「全部を見せれば、混乱を増やす可能性がある」


「隠しても混乱する」


 カミラは中央広場を見る。


「今の人々は、何が起きているか知らない。分からないまま門を閉じられれば、誰かが一言叫ぶだけで暴発する。なら、選べるだけの情報を渡す」


「軍の命令を、群衆へ晒す?」


「誰か一人の命令へ、全員を預けるな」


 カミラは言った。


「紙を分けろ。声も分けろ。受け取った人間自身に、判断させろ」


 ハインリッヒは、しばらくカミラを見た。


 病院で帝国の統一を疑わなかった男である。


 複数の命令が並び、人々が別々の判断をする状況を、好むはずはない。


 それでも、白樺礼拝堂で何が起きたのかを知っている。


 一枚へ集めた紙は、一度に燃やされる。


 一人へ預けた命令は、その一人を止めれば消える。


「写しを十枚追加しろ」


 ハインリッヒは、副官へ命じた。


「配給所、診療天幕、西門、演壇前、門外の天幕へ二枚ずつ。剥がされた場合は、奪い合うな。剥がした者の名前、時刻、場所を記録しろ」


「承知しました」


 副官が兵士を連れ、走っていく。


「帝国軍人が、帝国の命令を増やす?」


 俺が言うと、ハインリッヒは短く息を吐いた。


「一枚へまとめれば、また燃やされる」


「病院にいた頃より、柔軟になった?」


「お前に言われたくない」


「俺はかなり成長した」


 カミラが、背中へ回していた腕へ少しだけ力を入れた。


「痛い」


「歩けるな」


「ああ」


「なら、前を見ろ」


 非常に厳しい。


 だが、悪くない。



 ──第四十九部 了


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