第四十八部 儀礼待合室と、名乗らないまま止める話 ③ 儀礼待合室と、順番を待つ部屋
儀礼待合室は、昔、外交使節が演壇へ上がる前に身なりを整え、順番を待つために使われていた部屋だった。
高い窓、古い暖炉、白鷹の紋章を削り取った跡、壁際へ並ぶ長椅子、儀礼用の外套を掛ける木製の衣装台。帝国の関所となった今も、部屋の形だけは残っている。
中央の机には、三種類の紙が置かれていた。
机へ並んでいるのは、ヴァルター軍監の停止命令、北方軍保安監督室の移送命令、そして旧リュカリオン王家臨時帰還令だった。
最後の一枚には、レオン・ヴァン・リュカリオンという署名がある。
俺が書いたものではない。
室内には、コンラート・ヘスラー大佐が立っていた。
五十代半ば。灰色の髪。細身。軍服は整い、胸元には保安監督室の印章がある。演壇の上で見た時と同じように、こちらへ媚びる顔ではない。
その隣には、白い外套を脱いだ偽の王子がいた。
年齢は俺と大きく変わらない。整った顔立ちではあるが、俺には似ていない。白鷹の刺繍が入った外套を脱げば、避難民区や救恤所で働いていても不思議ではない、痩せた若い男に見える。
男は、俺を見た。
毛布、煤、額のこぶ、左腕の包帯、腹へ巻かれた布、カミラの腕へ支えられて歩く姿。
どう見ても、王子らしい姿ではない。たぶん、かなり。
「負傷者まで連れてきたのか」
ヘスラー大佐が言った。
「白樺礼拝堂で鐘を鳴らし、人を逃がした傭兵です」
ハインリッヒは答える。
「偽帰還令事件の重要証人でもある。軍監直轄の保護拘束対象として、俺が管理します」
「名前は」
「ロド・カナリ」
俺は答えた。
ヘスラーは、しばらく俺を見たあと、次にカミラへ視線を移す。
「カミラ・パヴェル監察官」
「何だ」
「イタリカの監察官が、帝国領内で何をしている」
「紙を追っている」
カミラは革袋から白樺礼拝堂で回収した指示書を出し、机へ置いた。
「あなたの命令へ、別の命令が混ざっている」
ヘスラーの目が、わずかに細くなる。
「礼拝堂の火は、俺の命令ではない」
「分かっている」
カミラは即座に答えた。
ヘスラーが、少しだけ顔を上げる。
「分かっていて、俺を疑うのか」
「あなたが火を付けたとは言っていない。あなたの仕組みが使われたと言っている」
忠誠登録名簿、移送札、青い細線、黒松脂の配布記録を、カミラは順番に並べる。
「人を集める。札で分ける。働ける男を西門へ寄せる。老人、女、子どもを演壇の前へ置く。旧村の代表や、昔の軍歴を持つ者を白鷹旗の近くへ並べる。その形があれば、帰還劇も反乱劇も作れる」
ヘスラーは紙を見る。
「北方を守るために必要な分類だ」
「救恤のために必要な分類もある」
カミラは答えた。
「ただし、行き先を書かない移送札は要らない。忠誠登録を条件に麦と薬を配る必要もない。黒松脂を、演出用の火鉢と炊事場の補修へ必要な量以上に運び込む理由もない」
室内の空気が、少しだけ重くなる。
ヘスラーは、すぐには否定しなかった。
「調べる」
低い声で言う。
「だが、西門は閉じる」
ハインリッヒの目が細くなる。
「停止命令が出ています」
「移送を停止する命令だ。安全確保まで止めろとは書かれていない」
「門を閉じれば、旧臣民を広場へ閉じ込めることになる」
「地下組織の人間も残る」
「家族を分けたまま?」
カミラが訊いた。
「照合が終わるまでだ」
ヘスラーは答える。
「混乱を抑えるためには、動線を一つへ絞る必要がある。命令が複数へ分かれ、兵士も民も好きな方向へ動けば、白樺礼拝堂より大きな混乱になる」
「一つへまとめるから、奪われる」
カミラが言う。
「紙も、人も」
「監察官」
ヘスラーの声が低くなる。
「現場で七百人を扱う時、全員へ別々の道を選ばせる余裕はない」
「余裕がないから、誰か一人へ全部を預ける?」
「秩序だ」
「隠せば、拘束だ」
どちらも声を荒らげない。
だからこそ、簡単には終わらない。
ヘスラーは、旧臣民を焼こうとしているわけではない。
だが、管理するために閉じ込める。
カミラは、混乱を放置しろと言っているわけではない。
だが、一枚の紙へ従わせるなと言う。
その間へ、円の中の目が火を足す。
「家族は分けないでくれ」
それまで黙っていた若い男が言った。
白い外套を脱いだ偽の王子。
声は、演壇の上で人々へ届かせていた時より少し低い。
「濃い青線の札を持つ男だけを先へ動かせば、家族が不安になる。礼拝堂でも、それが火の前に混乱を大きくした」
ヘスラーは男へ顔を向ける。
「お前は、演壇へ戻れ」
「戻る」
「なら、役割を守れ」
「王子役だからこそ言っている」
若い男は答えた。
「俺の名前で集めた人間ではない。だが、俺の口で呼んだ人間だ。家族を分けていいとは言っていない」
俺は、その男を見る。
俺の名前を使い、父の言葉まで使った偽物である。それでも、逃げようとはしていない。
「名前は」
俺が訊いた。
男は、少しだけ眉を寄せる。
「お前に言う必要は」
「ある」
俺は答えた。
「人へ名前を書かせた。家族札も集めた。忠誠登録もさせた。なら、自分も名乗れ」
カミラが、ほんの少しだけ顔を向ける。
若い男は、しばらく黙ったあと、口を開いた。
「ミハイル・ヴァルゼン」
その声は、演壇の上より小さい。
だが、今度は借りた名前ではなかった。
「旧リュカリオン北部の村で、穀倉記録係をしていた男の息子だ」
「なぜ、王子になった」
ミハイルの指が、机の上へ置かれた帰還令へ触れる。
「最初の冬に、父が死んだ。翌年、母も薬を受け取れないまま死んだ」
声は落ち着いている。
ただし、紙へ触れた指だけが、少し強くなる。
「避難民区では、名前のない人間へ麦袋は動かなかった。薬箱も。旧村名を書いても、家族札を集めても、後回しにされた。だが、王子の名を使えば動いた」
俺は黙る。
「一袋だけだった。最初は」
ミハイルは続けた。
「病人がいると言った。子どもがいると言った。それでも動かなかった麦袋が、王家の印を押した紙を見せると動いた。だから、次も使った」
「父の言葉は」
俺が訊く。
ミハイルは、帰還令の端へ視線を落とした。
「救恤調整室を通じて届いた紙束に書かれていた。旧王家の儀礼文、昔の演説、門を通る時の言葉。使えば信じてもらえると言われた」
円の中の目、青い細線、救恤調整室、そして王宮に残っていた言葉。その全部がつながる。俺の知らないところで、誰かがまだ昔の宮殿を歩いている。
「火を付けろとも?」
カミラが訊いた。
「言われていない」
ミハイルは、即座に答えた。
「礼拝堂で火が上がったと聞いた。俺も、さっき初めて知った」
「信じろと?」
「信じなくていい」
ミハイルは答える。
「だが、広場にいる人間を燃やしたいなら、俺は演壇へ戻らない」
借りた名前を使った男。
間違った方法で、麦と薬を動かした男。
地下組織へ利用された可能性もある。
それでも、簡単に敵へ押し込めることはできない。
「ミハイル」
俺は言った。
「王子ではない」
男の目が、少しだけ動く。
「分かっている」
「だが、逃げるな」
少しだけ間が空く。
「ああ」
ミハイルは答えた。
「逃げない」
──第四十八部 了




