第四十八部 儀礼待合室と、名乗らないまま止める話 ① 白鷹門の鐘と、名乗らない選択
白鷹門の鐘は、帰還を告げる形で、もう一度だけ長く鳴った。
窓の外では、白い外套をまとった男が、俺の父の言葉を使っている。
「王家の名は、門より先へ通る」
昔、冬の白鷹門で聞いた言葉だった。
まだ幼かったレイラは、厚い手袋をはめた両手で俺の外套の端を掴み、寒いと何度も言いながら、それでも門の上へ掲げられた白鷹旗を見上げていた。父は、名前を持つ者は、自分より先に進んだ名前の責任から逃げられないと教えた。
その言葉を、今は知らない男が使っている。
俺の名前も、父の言葉も、白鷹旗も、帝国の鷲旗も、人を救うために配られた麦と薬も、同じ演壇へ並べられていた。
腹の奥へ、傷とは違う熱が残る。
「出る」
俺が言うと、荷台の端へ座っていたカミラは、窓の外から視線を外さないまま答えた。
「まだ駄目だ」
「父の言葉を使っている」
「分かっている」
「止める」
「止める。ただし、あんたが今すぐ演壇へ出て名乗れば、止まるものより動き出すものの方が多い」
カミラの声は低く、いつもどおり現実的だった。
白鷹門の中央広場には、七百人近い人間が集められている。旧リュカリオンの帰還を信じて来た者も、麦や薬を求めて来た者も、家族を探すために札を渡した者も、帝国軍の命令で配置された兵士もいる。
その中心へ本物の亡国王子が現れれば、偽の帰還劇が終わるとは限らない。
別の帰還劇が始まる。
「名乗らずに止める方法を探す」
ハインリッヒ・フォン・ホルマンが言った。
トルガウの帝国軍野戦病院で隣の寝台にいた男は、乾いたインク壺の置かれた古い机の前へ立ち、窓の外へ視線を向けている。少し前まで、彼にとって俺は、怪我を増やして医者の言うことを聞かない外国人傭兵だった。
今は違う。
帝国から金貨千枚を掛けられた、旧リュカリオンの元王子。
それでも、ハインリッヒの態度は急には変わらなかった。
「停止命令の写しは、予定した五か所へ運ばせた」
扉の近くへ立っていた若い副官が戻り、机の上へ記録板を置いた。
「検問所、診療天幕、配給所、門外の街道標には貼れました。ただし、兵舎へ運んだ一枚は、保安監督室直属の兵士が受け取りを拒みました。検問所の写しも、一度剥がされかけています」
「誰が剥がした」
「名前は記録しました。写しも残っています」
「それでいい」
ハインリッヒは短く頷いた。
「奪い返すために剣を抜くな。誰が、どの紙を、どこから動かしたか残せ」
「承知しました」
カミラは革袋から白樺礼拝堂で回収した指示書を取り出し、停止命令の写しの横へ並べた。
「一枚の命令へ戻そうとする人間がいる」
紙の端へ引かれた青い細線、黒松脂の配布記録、忠誠登録名簿、行き先を書かない移送札。どれも、それだけを見れば、救恤や街道管理のために必要だと言い張れる。
だが、重ねれば別の形になる。
「ヴァルター軍監の停止命令を消し、保安監督室長の命令だけを残せば、ここにいる人間は一つの道へ動く」
カミラは言った。
「旧境の外側へ。家族を分けたまま」
俺は窓の外を見る。
演壇の前には老人、女、子どもが集められ、働ける男たちは少し離れた西門の近くへ寄せられている。遠目には、同じ帰還を待つ人々に見える。
実際には、紙の端へ引かれた線によって、立つ場所まで変えられていた。
「偽の王子は、どこまで知っている」
俺が訊くと、ハインリッヒはすぐには答えなかった。
「本人へ聞く」
「会える?」
「向こうから来る」
ハインリッヒは、扉へ顔を向けた。
旧税関詰所の外で、複数の靴音が止まる。
扉が叩かれた。
「軍監付連絡士官殿」
低い声が聞こえる。
「コンラート・ヘスラー大佐より伝言です。監査関係者は、儀礼待合室へ移動してください」
ハインリッヒは副官へ視線を送り、扉を少しだけ開けさせた。
外に立っていたのは、保安監督室直属の兵士が二人。揃った靴、整えられた剣帯、胸元の印章。白樺礼拝堂で見た偽兵とは違う。
「理由は」
ハインリッヒが訊く。
「ヴァルター軍監の停止命令について、室長本人が確認します。カミラ・パヴェル監察官、白樺礼拝堂の証拠、同行する負傷者についても、身元と経緯を記録するよう命じられました」
負傷者とは、たぶん俺のことだ。
「記録する場所は、ここでも足りる」
カミラが言った。
「室長は、中央広場を離れられません」
兵士は答える。
「帰還宣言後、西門の閉鎖と移送開始を確認する必要があります。儀礼待合室は演壇の裏です」
カミラの目が細くなる。
「西門を閉じる?」
「安全確保のためです」
兵士は、決められた言葉を読むように答えた。
「地下組織関係者が旧五国側へ逃れる可能性があります。旧籍照合が終わるまで、門を一時閉鎖します」
理屈はある。
だが、門を閉じれば、七百人近い人々は広場へ残される。働ける男だけを先に移送しようとすれば、家族も分かれる。
「行く」
ハインリッヒは言った。
「ただし、負傷者は軍監付連絡士官の保護拘束下にある。勝手に顔を確認するな。移動中も毛布を掛ける」
「承知しました」
兵士が答える。
俺は少しだけ顔を上げた。
「また荷物?」
「今は、荷物の方が安全だ」
ハインリッヒは淡々と言った。
「待遇が悪い」
「毛布がある」
「少し改善した」
カミラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「笑った?」
「笑っていない」
「今のは」
「傷へ響くぞ」
「非常に卑怯だ」
本当に効く。
──第四十八部 了




