第四十七部 白鷹門の内側と、名乗れば負ける王子の話 ④ 中央広場と、突然の歓声
中央広場は、門の内側へ作られた大きな石畳の空間である。
昔は外交使節を迎える儀礼や、商隊の荷札確認に使われた。今は白い天幕が張られ、旧臣民へ麦、薬、毛布を配る救恤所として使われている。
その中央には演壇があり、背後には旧リュカリオンの白鷹旗、隣にはグランデル帝国の鷲旗、さらに演壇の右側には北方軍保安監督室の紋章が置かれていた。
人々は広場の外側から少しずつ中へ入れられている。
ただし、自由に立っているわけではない。
薄い青線、濃い青線、二重線。札の違いによって、立つ場所まで分けられている。老人、女、子どもは演壇の前。働ける男は後方。旧村で役職を持っていた者は演壇の近く。元兵士や馬を扱える者は、旧五国側へ抜ける西門の近くへ寄せられていた。
「軍事配置だな」
俺が言う。
「ああ」
ハインリッヒは答えた。
「反乱軍を作る配置にも見える。逆に、反乱軍として鎮圧するための配置にも見える」
「どちらにも使える」
「それが目的だろう」
ハインリッヒは指で、門の西側を示した。
「旧五国側へ抜ける門は、今は半分だけ開いている。保安監督室長が帰還宣言を出したあと、忠誠登録を済ませた者から順番に向こうへ通す予定だ」
「どこへ」
「書類上は、旧村への帰還準備地」
「本当は」
「分からない」
カミラが低い声で言った。
「分からないまま、人を動かすな」
「ああ」
ハインリッヒは頷く。
「俺も止めるつもりだ。ただし、問題がある」
「何だ」
「俺は軍監付連絡士官として監査命令を運んでいるが、現場指揮官であるヘスラー大佐の命令を、俺一人で無効にする権限はない」
旧税関詰所の中が静かになった。
外からは鐘の音、人々のざわめき、鍋へ木匙を入れる音、馬の鼻息が聞こえる。
「ヴァルター軍監の停止命令がある」
カミラが言う。
「監査のための保留命令だ。大佐は、現場の緊急対応を理由に従わない可能性がある」
「帝国軍は」
「割れる」
ハインリッヒは淡々と言ったが、目は笑っていない。
「門の守備兵は大佐の指揮下にある。俺が連れてきた兵は七人。巡察隊、水車場から同行した護送班、礼拝堂から来た者を合わせても、多くはない。剣を抜けば、門の内側にいる七百人近い人々を巻き込む」
「抜けない」
「ああ」
「俺が名乗る?」
俺が訊くと、ハインリッヒはすぐには答えなかった。
「危険だ」
「偽物を止めるには、本物が必要では」
「七百人の前で本名を名乗れば、その瞬間から、お前の意思だけでは済まない」
ハインリッヒは窓の外へ視線を向けた。
「帰還を待っていた者がいる。帝国を憎む者もいる。旧五国連合域で今の統治を嫌う者もいる。お前が王になると言わなくても、周囲が王を作る」
白樺礼拝堂、旗、鐘、父、レイラ、俺の知らない演説。そのすべての向こうで、名前は門より先へ通る。
「名乗らなければ」
俺は言った。
「偽物が勝つ」
「ああ」
「名乗れば」
「別の火が付く」
ハインリッヒの言葉は厳しいが、正しい。
「さらに、金貨千枚の懸賞も消えるわけではない。今は正体を知る者を限っている。だが、公に名乗れば、ここにいる兵士、役人、商人、傭兵、荷役の全員が、お前の首へ値段が付いていると知る」
「善人ばかりではない」
「善人でも迷う額だ」
その重さは、本物だった。
「お前が善人かどうかは、今はどうでもいい」
ハインリッヒは言った。
「王へ戻る意思があるかどうかも、問題ではない。七百人の前でレオン・ヴァン・リュカリオンを名乗れば、それだけで帝国軍はお前を拘束しなければならず、旧臣民の一部は旗へ集まる。名乗らなければ、偽物の王子が人を連れて旧境を越える。どちらを選んでも、血が流れる可能性がある」
「難しいな」
「非常に」
「病院の方が楽だった」
「病院でも、お前は医者の言うことを聞かなかった」
「少しだけ」
ハインリッヒは、ほんのわずかに笑った。
だが、カミラは笑わなかった。
紙へ視線を落とし、しばらく黙っている。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「名乗れ」
俺がカミラを見ると、ハインリッヒも顔を向けた。
「ただし」
カミラは続けた。
「あんたの名前で人を集めるな。忠誠を求めるな。王家へ戻れとも言うな。帰る場所を、あんたが決めるな」
低い声に、迷いはない。
「名前を使うなら、返すために使え」
「返す?」
「人を集める道具にされた名前を、本人へ返せ。家族札を持っている者へ、決める権利を返せ。麦を受け取るか、薬を使うか、帝国領へ残るか、旧村へ戻るか、別の町へ行くか。あんたの名前へ従わせるな」
胸の奥へ落ちた言葉は重かったが、不思議なほどまっすぐ立っていた。
「王子へ戻るかどうかは、あとで決めろ」
カミラは言った。
「今は、他人に使わせるな」
俺は、少しだけ息を吐いた。
「立てるかな」
「立つ必要はない」
「荷車で演説?」
「似合う」
「非常に失礼だ」
「事実だ」
カミラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それでも立つと言うなら、私が支える」
返事が、少しだけ遅れた。
非常に良い。ただし、今は余計なことを言わない。たぶん、少しだけ成長した。
「分かった」
俺は答えた。
「名乗る」
◇
旧税関詰所の外から、突然、大きな歓声が上がった。
鐘の音が変わり、一度長く鳴ったあと、少し間を置いてもう一度響いた。帰還を告げる鐘だった。
人々のざわめきが、中央広場へ集まっていく。
ハインリッヒが窓へ近づき、布の隙間から外を見た。
「来た」
俺も起き上がろうとしたが、腹へ痛みが走り、カミラの右手が肩へ載る。
「ゆっくり」
「ああ」
少しずつ体を起こし、荷台の縁へ背を預ける。
窓の外には、中央広場、演壇、白い外套、白鷹旗、帝国の鷲、偽の王子。そして、その隣へ歩いてくる男が見えた。
五十代半ば。灰色の髪。細身。帝国北方軍の制服。肩章。胸元には、保安監督室の印。歩き方に迷いはなく、兵士は道を空け、書記官は頭を下げる。
「コンラート・ヘスラー大佐」
ハインリッヒが低い声で言った。
「北方軍保安監督室長だ」
ヘスラーは演壇へ上がり、群衆を見た。
老人、女、子ども、働ける男、旧村の代表、白鷹旗、帝国の鷲。その全部を確かめたあと、偽の王子へ少しだけ頭を下げる。
敬意ではなく、舞台の上で必要な形を作るための礼だった。
偽の王子が、一歩前へ出た。
「旧リュカリオンの民よ」
中央広場が静かになる。
「長く待たせた」
礼拝堂と同じ始まりだった。
ただし、今度は七百人近い人々、旗、鐘、帝国軍、門、昔の国、その全部が揃っている。
「私は帰った」
偽の王子は続ける。
「散った民を、もう一度一つへ戻すために。焼かれた村を立て直し、失われた家族を探し、白鷹の旗を、もう一度この地へ掲げるために」
嗚咽が聞こえる。老人は泣き、女は胸の前で手を組み、働き盛りの男は白鷹旗を見る。信じたいと思うのは当然だった。その言葉も、その旗も、その形も、長く待っていた。
「王家の名は」
偽の王子が言った。
少しだけ間を置いたところで風が吹き、白鷹旗が揺れる。
「門より先へ通る」
呼吸が止まり、父、雪、白鷹門、まだ幼かったレイラ、厚い手袋が一度に戻った。
昔、ここで聞いた父の言葉。
王家の儀礼で使われた言葉。
偽の王子は、俺の名前や白鷹旗だけを持っているのではない。
父の言葉も、王宮で使われていた言葉も、旧リュカリオンの中へ残っていたものまで持っている。
「知っている言葉か」
カミラが訊いた。
俺はすぐには答えられなかった。
中央広場では、偽の王子が続きを話している。帝国と協議した。帰還を認められた。麦を配る。薬を渡す。旧村へ戻す。家族を探す。忠誠登録を。順番に。
「レオン」
カミラが、本当の名前で呼ぶ。今度は答える。
「ああ」
腹の痛みも、左腕の熱も、煤も、泥も、荷車も、全部ある。
それでも、目を逸らさない。
「王宮の言葉だ」
俺は言った。
「たぶん、俺の知らないところで、誰かがまだ宮殿の中を歩いている」
白鷹門の鐘が、もう一度鳴った。
帰還を告げる音の下で、俺の知らない王子は、俺の父の言葉まで持っていた。
──第四十七部 了




