第四十七部 白鷹門の内側と、名乗れば負ける王子の話 ① 旧税関詰所と、ハインリッヒ
旧境白鷹門をくぐった荷車は、人の流れから外れるように右へ曲がり、門壁の内側へ沿ってゆっくり進んだ。
石畳の継ぎ目を車輪が踏むたび、板張りの荷台から遠慮のない振動が背中へ伝わってくる。白樺礼拝堂で縫い直した左上腕の傷も、腹へ巻かれた布の下へ残る浅い裂傷も、そのたびに存在を主張した。
かなり痛いが、今は我慢できる。問題は、我慢できると言った瞬間にカミラが眉を寄せ、さらに横になれと言い出す可能性が高いことだった。
俺は毛布の上へ寝かされたまま、荷台の縁から見える範囲だけを確かめた。
門の内側には白い天幕が何列も並び、その間を、家族札を握る老人、子どもの手を引く女、昔住んでいた村の名を書いた紙を胸へ抱え、誰かを探して歩く男たちが行き交っている。麦粥を煮る鍋、積まれた薬箱と毛布、帝国軍の制服を着た兵士、救恤調整室の腕章を付けた書記官、白鷹旗を運ぶ荷役まで、異なる役割を持つ者が同じ場所へ集まり、同じ流れへ押し込まれようとしていた。
広場の方角から、鐘の音が聞こえる。
祈りでも、火事でもない。人を集めるための鐘だった。
「顔を上げるな」
荷台の端へ座っていたカミラが、前を向いたまま言った。
「少し景色を見るだけだ」
「もう見ている」
「確認は大切だ」
「誰かに見られれば、確認されるのはあんたの方だ」
厳しいが正しい。俺の首には、グランデル帝国から金貨千枚が掛かっている。手配書へ正確な似顔絵が載っているわけではなく、広く出回っているのは名前、立場、年齢、その程度だ。十年前、十八歳だった旧リュカリオン王子と、奴隷施設で三年を過ごし、その後は傭兵として戦場と街道を歩いてきた二十八歳の男が、同じ顔であるはずもない。
日焼け、傷、寝不足、煤、額のこぶ。さらに今は、左腕と腹へ包帯まで巻かれている。普通の兵士が遠目に見ただけで、即座に亡国の王子と断定する可能性は低い。
ただし、一度でも疑われれば面倒だった。
金貨千枚は、普通の兵士が一生働いても簡単には手にできない額である。善意だけへ期待するなと、白鷹門をくぐる前にハインリッヒが言ったが、それは非常に正しい。
「少しだけなら」
「駄目だ」
「荷台の縁へ手を掛けるだけだ」
「駄目だ」
「王子へ命令する?」
「軍監直轄の保護拘束対象へ命令している」
「言い方が急に硬い」
「意味も硬い。横になれ」
カミラは革袋を膝へ載せ直した。中には、白樺礼拝堂で回収した忠誠登録名簿、黒松脂の配布記録、円の中の目が描かれた指示書、ヴァルター軍監の停止命令の写しが、奪われても一度に失われないよう分けて収められている。
原本は別の道へ送り、写しも一か所へまとめない。配給所、診療天幕、検問所、兵舎、門の外側。どこへ何枚を、どの順番で運ぶかまで、カミラは移動中に決めていた。
俺の仕事は寝ることだったらしい。極めて重要な任務である。
「保護拘束下の傭兵は、どこへ運ばれる」
俺が訊くと、荷車の横を歩いていたハインリッヒ・フォン・ホルマンが振り返った。
「旧税関詰所だ。中央広場から外れている。紙を確認するにも、身元を確かめるにも都合がいい」
「待遇は」
「荷車」
「それは、すでに知っている」
「毛布もある」
「少し改善した」
「感謝しろ」
「帝国軍は、病院の外でも患者の扱いが雑だな」
「病院で、歩くなと言われても歩こうとした患者が言うな」
ハインリッヒの声は低いが、病室で隣の寝台から本を閉じ、こちらへ顔を向けた時とほとんど変わらなかった。
トルガウのグランデル帝国軍野戦病院。エルゼが記録板を抱えて病室を歩き、アーノルト軍医が俺の傷を見て眉を寄せ、その隣で、帝国の統一を疑わない士官が本を読んでいた。
退院の日には、補給路で使える帝国語の短文を紙へ書き、栞として黙って寄越した男。
あの時、俺は外国人傭兵のロド・カナリだった。
少なくとも、ハインリッヒにとっては。
「相変わらずだな」
ハインリッヒは言った。
「何が」
「傷を増やしてから、歩けると言い張るところだ」
「少しは成長した」
「荷車の上で言われても、説得力がない」
かなり厳しいが、荷台の端で、カミラの口元がわずかに緩んだ。
「笑った?」
「笑っていない」
「今のは笑った」
「傷へ響くぞ」
「非常に卑怯な脅しだ」
「効くだろ」
本当に効く。
◇
旧税関詰所は、中央広場から少し離れた門壁の陰へ残っていた。
石造りの低い建物で、正面には小さな受付窓があり、奥には荷札と通行証を確かめるための机、記録箱を置く棚、役人が休むための狭い仮眠室が残されている。昔は、帝国側と旧五国側を行き来する商人や旅人の荷物を調べ、名前を記録する場所だった。
今は使われておらず、窓へ掛けられた布には埃が積もり、机の上には乾いたインク壺が置かれたままになっている。
荷車が裏口へ回ると、北方第三巡察隊の兵士二人と、ハインリッヒの副官である若い将校が周囲を確かめた。
「ここなら、中央広場からは見えない」
ハインリッヒは言った。
「まず、軍監の停止命令を散らす。保安監督室長が人を集め切る前に、別の命令が届いていると現場へ知らせる」
「門の兵士は従うか」
カミラが訊く。
「全員が従うとは限らない。だが、少なくとも迷う」
「迷わせる?」
「今は、それでいい。命令が一枚しかないと思わせれば、誰も疑わず同じ方向へ動く」
ハインリッヒは、石壁の向こうから響く鐘へ顔を向けた。
「保安監督室長は、帝国の鷲旗、旧王家の白鷹旗、救恤所、忠誠登録、移送札を同じ流れへ並べ、人々にも兵士にも、従う道は一つしかないと思わせようとしている」
「本当に一つなら」
カミラが言った。
「誰が、どの紙で、誰を動かしたかを隠す必要はない」
「ああ。残せない理由がある」
ハインリッヒは短く頷いたあと、副官へ停止命令の写しを渡した。
「検問所、診療天幕、配給所、兵舎、門外の街道標へ一枚ずつ。受け取った者の名前を記録しろ。剥がされた場合も、奪い返すために剣を抜くな。誰が剥がしたかを残せ」
「承知しました」
副官と巡察隊の兵士が裏口から出ていく。
扉が閉じたあと、ハインリッヒはしばらく動かなかった。
中央広場へ人を集める鐘が、もう一度鳴る。
「ロド」
低い声で続ける。
「一つだけ、先に確認する」
「何だ」
「白樺礼拝堂から届いた報告書には、偽帰還令事件の中心に、レオン・ヴァン・リュカリオンの名があると書かれていた。さらに、同じ紙には、ロド・カナリと名乗る傭兵がカミラ・パヴェル監察官と行動しているともある」
ハインリッヒは、病室で隣の寝台へいた時よりも少しだけ遠い顔で俺を見る。
「病院で、お前はロド・カナリだった」
「ああ」
「今も、そう呼ぶべきか」
すぐには答えなかった。カミラも口を挟まず、革袋へ手を置いたまま、俺が自分で言うのを待っている。
「人前では、ロド・カナリでいい」
俺は言った。
「だが、本当の名前は、レオン・ヴァン・リュカリオンだ」
ハインリッヒは、しばらく何も言わなかった。
驚いた顔ではないが、目が少しだけ細くなる。
病院の隣の寝台で、歩けると言い張り、帝国語の短文を書いた栞を受け取り、外国人傭兵として退院していった男。その首へ、帝国は金貨千枚を掛けていた。
「病院の隣へ」
ハインリッヒは、ゆっくり息を吐いた。
「金貨千枚が寝ていたのか」
「捕まえておけば良かった?」
「今、その冗談を言うのか」
「少しだけ、気になった」
「帝国軍人として答えるなら、指名手配は有効だ。懸賞も消えていない」
ハインリッヒは机の端へ手を置き、続けた。
「だが、今のお前は偽帰還令事件の重要証人でもある。円の中の目、青い細線、保安監督室の書式へ混ぜられた別の紙、その全部へつながっている。俺は、勝手にお前を誰かへ引き渡さない」
「保護拘束?」
「ああ」
「便利な言葉だな」
「便利でなければ、帝国軍は動かない」
ハインリッヒの声は平静だった。
ただし、感情がないわけではない。
「俺の父の世代は、旧リュカリオンの平定に関わった」
低い声で続ける。
「病院で隣にいた傭兵が、あの戦争で滅びた国の王子だったと知って、何も考えないほど鈍くはない」
俺は、少しだけ息を吐いた。
「恨む?」
「それを決めるのは、今ではない」
ハインリッヒは答えた。
「今は、門の内側にいる五百人以上を先に見る。お前も、まずそれを見ろ」
本当に正確だった。
──第四十七部 了




