第四十六部 旧境白鷹門と、王子へ戻らない男の話 Another Side:セラ
セラと、忘れられない馬鹿な傭兵の話
病棟の朝は、誰か一人の都合に合わせて始まるわけではない。
夜勤の看護師から記録を受け取り、熱を測り、薬を配り、包帯を替え、食事をどこまで取れたかを確かめる。眠れなかった患者には理由を聞き、痛みが強い患者については医師へ伝え、歩けると言い張る患者には、本当に歩かせてよいか慎重に判断する。
セラは、いつもどおりに働いていた。
窓から入る朝の光、廊下へ残る薬草の匂い、湯を運ぶ足音、食器を重ねる音、誰かの咳、誰かの寝息。病棟には、今日も生活がある。
「姉ちゃん」
寝台の上から、若い男が声を掛けた。
二日前に運ばれてきた傭兵である。右脚には包帯、額には小さな切り傷。本人は軽傷だと言い張っているが、医師からは三日は歩かせるなと言われていた。
「何ですか」
「俺、今日から歩けると思う」
「思うだけなら自由です」
「本当に」
「先生の許可が出ていません」
「少しだけ」
「駄目です」
「便所まで」
「付き添います」
「外まで」
「駄目です」
「酒場まで」
「もっと駄目です」
男は少しだけ不満そうな顔をした。
「厳しいな」
「治すために入院していますから」
「歩いた方が早く治るかもしれない」
「悪化する可能性の方が高いです」
「俺は丈夫だ」
「丈夫な方は、ここへ寝ていません」
男は黙った。
セラは包帯を外し、傷の周囲の腫れ、熱、出血を確かめる。
「痛みますか」
「少しだけ」
「動かすと?」
「かなり」
「正直で良いです」
「最初から正直だった」
「酒場まで歩くと言った方が?」
「精神的な回復も必要だ」
「三日後に考えてください」
新しい包帯を、強すぎず、緩すぎないように巻く。歩けると言い張る患者ほど、包帯の下を丁寧に見る。
以前、似たようなことを言った男がいた。
少し休めば大丈夫。動ける。歩ける。食べなくても問題ない。傷は浅い。たぶん。
そんな言葉を積み重ね、結局は寝台へ戻された馬鹿な傭兵。
本当に。
「何か面白い?」
寝台の男が訊いた。
セラは、少しだけ笑っていたらしい。
「昔、似たようなことを言う患者さんがいました」
「俺みたいに丈夫だった?」
「あなたより、もう少し馬鹿でした」
「ひどいな」
「本当です」
包帯を結び、寝台の端へ毛布を戻し、水差しを手の届く場所へ置く。
「無理に歩かないでください。熱が上がったら呼んでください。痛みが強くなった時もです」
「姉ちゃん」
「何ですか」
「その馬鹿な傭兵、治った?」
セラは、少しだけ手を止めた。
治った。
たぶん。
少なくとも、歩いて出ていった。
また怪我をするなと言った。食べろとも、休めとも、生きて戻れとも、全部を言えたわけではない。
あの日、一度だけの短い時間だった。
それでも、忘れられない。
「治りました」
セラは答えた。
「たぶん、今もどこかで馬鹿なことをしています」
「心配だな」
「はい」
思っていたより、素直に声が出た。
セラは少しだけ視線を落とし、それから、いつもどおりに記録板へ文字を書く。
体温、食事、痛み、歩行不可、包帯交換、次回確認。
特別な仕事ではない。誰かを探す力もなく、大きな国の動きを知る場所にもいない。地下組織も、帝国の命令も遠い。
それでも、目の前の患者へ水を渡し、傷を見て、記録を残す。
誰かが戻るために必要な仕事だった。
「姉ちゃん」
「何ですか」
「三日後なら、酒場まで」
「先生へ聞いてください」
「姉ちゃんは」
「駄目です」
「厳しいな」
「実績がありますから」
男は意味が分からないという顔をした。
セラは少しだけ笑い、次の寝台へ向かう。廊下には朝の光が入り、薬草の匂いと湯気、足音が、今日も続く生活の中へ混ざっている。
その中で、馬鹿な傭兵のことを、今日も少しだけ思い出す。
──Another Side 了




