第四十六部 旧境白鷹門と、王子へ戻らない男の話 ② 三通の紙と、分けた記録
伝令が持ってきた紙は、三通あった。
一通目はフォーゲル大尉から、二通目はベルント中尉から、最後の一通にはヴァルター軍監の封蝋が押されている。
カミラは、すぐに封蝋を割らなかった。色、印、紙、折り方を確かめ、伝令が通った道、誰から受け取ったか、どこで休んだか、何人へ見せたかを一つずつ聞く。
若い兵士は、途中から少し困った顔になった。
「本当に軍監殿の命令です」
「疑っているのは、あんたではない」
カミラは言った。
「紙を使っている誰かだ」
封蝋を割る。
文面は短かった。
旧籍照合および旧五国出身者の集積、移送を停止する。救恤そのものは継続。名簿、移送札、家族札の原本と写しは分散保管。白鷹印、北方軍印、救恤調整室印を使用した文書は、すべて別経路で提出。北方軍保安監督室長の命令は、監査終了まで保留。
さらに、末尾へ一行が加えられている。
帰還令に関与する自称王族、身元不明の関係者、重要証拠を所持する者は、軍監直轄の監査対象として保護拘束すること。
俺は、その一文を見た。
「保護拘束」
「便利な言葉だな」
カミラが言う。
「拘束へ保護を足すと、少し優しく見える」
「実際に保護が必要な場合もある」
「今回は?」
「両方だ」
カミラは淡々と答えた。
俺が何者かを、まだ周囲へ明かしてはいない。白樺礼拝堂では名前を使わずに人を逃がした。同行する兵士も、傷だらけの傭兵ロド・カナリと、記録を抱えたカミラ・パヴェルを見ているだけだ。
ただし、偽の帰還令が出ている以上、俺の身元はいずれ確認される。
問題は、それまでに何が起きるかだった。
カミラは紙の末尾へ視線を移した。
「保安監督室長は、直属護送班の一部を伴い、西北西へ移動中。行き先は旧境白鷹門」
「室長本人が来る」
「ああ」
「礼拝堂は試験」
「本番は旧境」
焼け残った指示書と同じだった。
ヴァルター軍監の命令が間に合ったからといって、終わりではない。むしろ帝国軍内部で正式な監査が始まったことで、相手も急ぐ。
「出る」
俺は言った。
カミラが紙から顔を上げる。
「駄目だ」
「なぜ」
「傷が開いている」
「縫った」
「縫ったから治ったわけではない」
「馬には乗れる」
「乗せない」
「歩く?」
「もっと駄目だ」
「では」
「荷車だ」
少し離れた場所には、麦袋を積んでいた小さな荷車が一台残っていた。幌もなく、座席も粗末な板張りで、どう見ても荷物を運ぶためのものだった。
非常に不本意である。
「俺は荷物ではない」
「今は、紙箱より扱いに注意が必要な荷物だ」
「価値は」
「面倒さでは、上だ」
「非常に厳しい」
「横になれ」
「王子へ命令する?」
「便宜上、怪我を増やす傭兵だ」
「便利な言葉だな」
「本当に」
カミラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
出発までに、焼け残った記録は三つへ分けた。
一つは第三宿駅へ戻し、一つは灰鐘関所から別経路でヴァルター軍監へ送り、最後の一つは巡察隊の兵士二人が白鷹門とは別の道へ持ち出す。
カミラは、忠誠登録名簿、火を使う指示書、白鷹旗の受領記録、移送経路、北方軍保安監督室の命令を、それぞれ別の袋へ入れた。同じ内容を一枚へまとめることはしない。
「一つ奪われても、全部は消えない」
カミラが言った。
「面倒だな」
「面倒でいい。楽に管理できるものは、楽に燃やされる」
荷車の上へ寝かされた俺は、板張りの振動を背中へ受けながら、革袋を抱えるカミラを見た。
追われ、肩を傷め、ほとんど眠っていない。それでも、紙を分け、人を分け、道を分ける。
人が、名前の束へ戻されないように。
「カミラ」
「何だ」
「お前は、ずっとこういうことをしていたのか」
「何を」
「消されそうな紙を残す」
カミラはすぐには答えなかった。
荷車は白樺林を抜け、西北西へ進んでいる。周囲には巡察隊の兵士が四人、水車場から同行した護送班の兵士が二人いて、全員が少し距離を置いて進んでいた。話は、たぶん聞こえない。
「監察官は、紙を読む」
カミラは言った。
「現場を見る。聞く。比べる。誰かが書かなかったことも、誰かが消したことも、残っている痕跡から拾う」
「地味だな」
「地味だ」
「剣より?」
「剣は一人を止める。紙は千人を動かす」
カミラは革袋へ目を落とした。
「だから、紙を雑に扱う奴が嫌いだ」
「燃やす奴も?」
「ああ」
「名前を売る奴も?」
「ああ」
少しだけ間が空く。
「人を札へ戻す奴も」
声が低くなる。
俺はカミラを見る。いつもより少しだけ遠い顔だった。
「前に言ったな」
俺は静かに続けた。
「帝国の奴隷だったと」
「言った」
「どのくらい」
「長く話すことではない」
「話したくない?」
カミラは答えない。
荷車の車輪が石を踏み、板張りが大きく揺れた。体が動き、腹へ痛みが走る。
「痛い」
声が漏れた。
カミラの右手が、反射的に俺の肩へ触れる。自分も左肩を傷めている。それでも、近づく。
「大丈夫か」
「少し痛い」
「少しではない顔をしている」
「顔への偏見が強い」
「実績だ」
カミラは少しだけ眉を寄せ、俺の腹へ巻かれた布を確かめる。まだ、血は滲んでいない。
「無理に話さなくていい」
俺は言った。
「今、聞く必要はない」
カミラはしばらく俺を見たあと、荷車の端へ座り直した。
「帝国へ売られた時」
低い声だった。
「私の名前は、必要なかった」
俺は黙る。
「年齢、体格、歯、怪我、働けるか、逃げたことがあるか、読み書きができるか。必要だったのは、それだけだ」
カミラは、自分の右手を見る。
「紙には番号が書かれていた。呼ばれる時も、番号だった」
荷車の軋む音が続く。白樺の枝は春の風へ揺れ、遠くでは鳥が鳴いていた。穏やかな景色の中で、カミラの声だけが少し低い。
「だから、嫌いだ」
カミラは言った。
「食事を渡すためと言いながら家族名を集める奴も、薬を渡すためと言いながら移送先を隠す奴も、人を守ると言いながら一か所へまとめる奴も。名前を残すふりをして、人間を番号へ戻す」
俺は、少しだけ息を吐いた。
「俺も、番号だった」
カミラが顔を上げる。
「三年間」
言葉にすると、思っていたより軽い。だが、軽くはない。
「十八で捕まり、帝国の強制労働施設へ送られた。鉱石、石、土、鎖。王子でも、傭兵でも、レオンでもない。働ける奴隷。倒れたら、動けるまで殴られる。動けなければ、端へ寄せられる」
雪、血、石、鎖、指、声。形になりそうな記憶が戻る。
だが、全部は追わない。
「二十一の時、リューリックが来た」
俺は続けた。
「一人で?」
「ああ」
「施設へ?」
「ああ」
「馬鹿だな」
「かなり」
少しだけ笑う。
「俺より、ずっと」
「それは相当だ」
「本当に」
カミラの口元も、ほんの少しだけ動いた。
それだけでいい。全部を話す必要は、まだない。
「レオン」
カミラが言った。
本当の名前。
俺は顔を向ける。
「何だ」
「番号ではない」
短い言葉だった。
だが、胸の奥へ残る。
かなり。
「お前も」
俺は答えた。
「カミラ・パヴェルだ」
「ああ」
「監察官」
「ああ」
「脇が甘い」
「最後は要らない」
「重要だ」
カミラの右手が、俺の腹へ巻かれた布を押した。
「痛い」
「生きているな」
「ああ」
「なら、いい」
正確だった。
──第四十六部 了




