第四十六部 旧境白鷹門と、王子へ戻らない男の話 ① 焼け跡の朝と、三通の伝令
目を覚ますと、焼けた白樺の匂いが、まだ診療天幕の中へ残っていた。
夜明け前の風が継ぎ合わせた布を小さく揺らし、外からは水桶を運ぶ足音、薪を割る音、煙を吸った者の咳、鍋へ水を足す音が聞こえてくる。濡れた土と灰の匂いへ、麦粥の薄い湯気が混ざっていた。
白樺礼拝堂の火は消え、百人を超える人々も生きている。ただし、焼け落ちた鐘楼も、燃えた旗も、倒れた白樺も、俺が斬った二人も、朝になれば都合よく消えるわけではなかった。
左上腕の傷は、夜のうちに縫い直されている。鐘楼が崩れた時に開いた傷口は昨日までより深く熱を持ち、腹へ巻かれた布の下にも鈍い痛みが残っていたが、息はできるし、指も動き、目も見える。
起き上がれるかどうか確かめようとして、寝台の上で少しだけ体を動かした。
その瞬間、横に置かれた椅子で何かが揺れた。
カミラだった。
革袋を膝へ載せたまま浅く腰を掛け、右手は袋の留め具へ触れ、左肩を庇うように外套を寄せて眠っている。短く切った黒髪はいつもより少しだけ乱れていた。
紙、短剣、出入口、そして俺。全部へ手が届く位置を選び、そのまま限界まで起きていたらしい。
カミラは警戒心が強い。眠る前には壁の位置を確かめ、窓を見て、扉がどちらへ開くかを見て、誰かが入ってきても右手で武器へ触れられる角度を保つ。その女が今は、椅子へ座ったまま少しだけ顎を引き、寝台へ肩を寄せて眠っていた。
非常に良い状況である。
いつもより力の抜けた頬、閉じた瞼、煤が少し残った首筋、外套の襟元から覗く白い肌。視線を下げれば、たぶん、さらに良いものが見える。
人間として、男として、傭兵として、極めて自然な興味だった。
ただし、昨日、カミラは言った。
私は、あんたを守る側へ数えている。
その言葉を思い出すと、少しだけ困る。以前なら、見えるものは見た。見えないものも、事故の可能性があるなら確認した。殴られ、蹴られ、木筒が飛んできても、後悔は少なかった。
だが今は、何かが違う。俺が目を覚ますまで隣へ残り、限界まで起きていた女の無防備を利用するのは、たぶん違う。
かなり惜しい。
本当に。
俺は寝台の端へ置かれていた毛布へ右手を伸ばした。夜明け前は冷える。肩へ掛けてやろうと思った。
ただし、左腕を少し動かした瞬間、縫い直した傷の奥へ熱が走った。
「痛い」
小さく声が漏れる。
カミラの目が開いた。
右手は、すぐに短剣へ向かわなかった。最初に俺の顔を見て、次に腹へ巻かれた布、左上腕の包帯、そのあとで周囲を確かめる。
以前とは、見る順番が少し変わっている。
「何をしている」
「毛布を掛けようとした」
「自分へ?」
「お前へ」
カミラは、ほんの少しだけ黙った。
「余計なことをするな」
「寒そうだった」
「動けば傷が開く」
「優しさを評価してほしい」
「評価している。だから怒っている」
「難しいな」
「寝ていろ」
カミラは椅子から立ち、俺の額へ右手を当てた。熱を確かめるために近づいた顔は真剣で、少し冷たい指先が額へ触れる。
近い。
非常に良い。
「熱は」
俺が訊く。
「高くない」
「生存確認?」
「ああ」
「俺もしていた」
「何を」
「全体を」
カミラの目が細くなる。
「どこまで見た」
「判断が難しい」
「正確に答えろ」
「途中まで」
「何の途中だ」
「非常に難しい質問だ」
カミラは、右手で俺の腹へ巻かれた布を押した。
「痛い」
「生きているな」
「ああ」
「なら、問題ない」
正確だった。
◇
診療天幕を出ると、焼け跡ではすでに朝の仕事が始まっていた。
北方第三巡察隊の兵士たちは、焼け残った紙箱の中身を二つへ分けている。一方には忠誠登録名簿、移送札、家族名の照合表が置かれ、もう一方には白鷹旗の受領記録、黒松脂の配布記録、円の中の目が描かれた指示書が並んでいた。灰楡の水車場から来た護送班の兵士も、その作業へ加わっている。
全員が、同じ顔をしているわけではない。
北方軍保安監督室直属護送班として命令書を運んだ者も、現場へ来て初めて行き先の書かれていない移送命令を見た者も、白樺礼拝堂の火を見た者も、子どもを石垣の向こうへ渡した者もいる。
帝国軍という一つの言葉だけで、全部を同じ場所へ押し込むことはできない。
焼け跡の端では、昨日、街道で会った老人が麦粥を食べていた。俺を見つけると、椀を持ったまま立ち上がろうとする。
「座っていていい」
俺は言った。
「傷がある。だから、座っていてほしい」
老人は少し迷ったあと、もう一度腰を下ろした。
「昨日は、助かったよ」
「俺だけではない」
墓地へ抜ける道を作った兵士、水を流したカミラ、子どもを受け取った女、火を消した人々。誰か一人の働きだけではない。
「それでも」
老人は椀へ視線を落とした。
「鐘を鳴らしてくれた。昔と同じ鳴らし方だった」
「覚えていた?」
「ああ。火事の鐘は、忘れない」
老人はしばらく黙ったあと、静かに訊いた。
「王子様も、覚えていると思うかい」
答えは、すぐには出なかった。
俺は鐘の鳴らし方を覚えていた。王子だった頃に習った。ただし、それだけで王子へ戻るわけではない。
「覚えているかもしれない」
俺は言った。
「ただし、覚えていることと、戻ることは別だ」
老人は俺を見た。何かを訊きたそうだったが、結局、訊かなかった。その代わりに少しだけ頷く。
「そうかもしれないな」
広場の反対側から、馬の音が聞こえた。
第三宿駅から来た伝令だった。
──第四十六部 了




