第四十五部 白樺礼拝堂と、帰る場所を自分で決める話 ③ 煙の中の偽の王子と、崩れる鐘楼
ただし、すぐには降りられなかった。
下から一人分の足音が上がってくる。書記服ではない。帝国軍の外套を着ているが、胸元の鷲印は古く、靴も剣帯も正規兵のものとは揃っていない。
「鐘を止めろ」
男は言った。
「人を外へ出せ」
「命令だ」
「誰の」
「殿下の」
「本人へ聞いた?」
男の顔が歪み、剣が鞘から抜かれる。
狭い階段。左腕は使えず、後ろには鐘、下には火と人とカミラがいる。逃げる場所はない。
男が踏み込み、右肩へ刃を振り下ろした。体をずらすと剣は石壁へ当たり、木の支柱が軋み、火花が散る。こちらも剣を抜いて受けるが、片腕では重い。
一度離れた男が今度は下から腹を狙って振り上げてくる。避けきれず、外套が裂け、皮膚へ浅く刃が走った。
熱く、かなり痛い。それでも、まだ動ける。
狭い足場、男の腕、振り上げられた剣、すぐ横へ垂れた鐘の綱、その全部を見ながら右足へ綱を絡め、一気に引いた。
鐘が鳴り、男が一瞬だけ上を見る。
その隙へ右手の剣を下から振り上げると、刃は外套と鎧の隙間から胸元へ深く入り、男は目を見開いたまま口を動かしたが声にはならなかった。
剣を抜く。
階段へ血が落ち、男の体は三段ほど転がって止まる。
死んだ。軽くはない。
ただし、この男は鐘を止め、人々を火の中へ戻そうとした。捕らえる余裕はなかった。
一度だけ息を吐き、階段を降りる。
◇
広場へ出ると煙が目へ刺さり、白樺の幹へ火が走り、演壇の布が燃え、白鷹旗の端も赤くなっていた。偽の王子はまだ演壇の近くにいて、周囲には書記服、古い帝国軍外套、短剣、たいまつ、逃げるための荷車が残っている。
そのうちの一人が、子どもを抱いた女へ剣を向けた。
「戻れ! 戻らなければ、斬る!」
腕の中に子どもを抱え、足元へ煙、火、水、泥が広がっているため、女は動けない。
俺は走った。
左腕が痛み、腹からは血が流れ、呼吸も乱れる。それでも男が女と子どもへ剣を振り下ろす前に間へ入らなければならない。
踏み込み、右手の剣を横へ払う。
刃が男の首へ入り、血が飛んだ。男の剣は石畳へ落ち、体もそのまま崩れる。
女は子どもを抱いたまま動かない。
「西へ」
掠れた声で言った。
「石垣を越えろ。走るな。転ぶ」
女は頷き、子どもを抱き直すと、足元を確かめながら石垣へ向かった。
剣を下ろすと、刃から血が落ち、火の中では白鷹旗が燃えていた。父の旗、昔の国、俺の名前、その全部が炎へ包まれている。
それでも今は、旗ではなく人を見る。
◇
カミラは墓地へ抜ける石垣の近くで、人々を外へ出し続けていた。
左肩を傷めている。それでも子どもを受け取り、老人の腕を支え、転んだ男へ手を貸し、水桶を蹴り倒し、火の道を少しずつ切っている。
「カミラ!」
呼ぶと、カミラがこちらを見た。
俺の腹から滲む血、剣、煙、倒れた男、その全部を見て顔が変わる。怒り、心配、恐怖、たぶん、それだけではない何か。
「倒れるな!」
「努力する!」
「守れ!」
「守る!」
声を返すと、人々の何人かがこちらを見た。
焦げた眉、額のこぶ、煤、血、包帯。かなりひどい。王子ではなく、どう見ても傭兵である。
それでも、偽の王子よりは少しだけ近い。
たぶん。
◇
演壇の近くで、偽の王子が白い外套と顔を覆う布を脱ぎ、逃げようとしていた。
二十代後半の若い男で、知らない顔だった。俺には本当に少しも似ていない。
「待て!」
追おうとしたが、その前へ荷車が倒れた。燃え始めた麦袋と木箱が道を塞ぎ、偽の王子は向こう側へ回ると、白樺の間へ走り、その奥へ待たせていた馬へ飛び乗った。
西北西の旧境へ向かった。たぶん、今なら追える。
だが、礼拝堂の鐘楼から木が軋む音がした。炎に包まれた柱が傾いている。
石垣の近くには、まだ子どもが二人、老人が一人、そしてカミラが残っていた。
追うか、戻るか。答えは分かっている。
偽の王子を追うためにここまで来た。それでも。
「カミラ!」
俺は叫んだ。
「下がれ! 鐘楼が落ちる!」
偽の王子ではなく、人へ向かって、石垣へ、火の中へ走る。
◇
鐘楼の柱が折れ、石、木、鐘が大きな音を立てて落ち始めた。人々が悲鳴を上げる。
カミラは子どもを一人抱き上げ、もう一人へ手を伸ばしたが、間に合わない。
俺は走った。
左腕を使うなと分かっているが、右手だけでは子どもを引けない。使う。
傷が開き、腕の奥へ熱が走る。それでも外套を掴み、子どもを引き寄せ、抱いたまま泥と水の中へ転がった。
石が背中へ当たり、すぐ後ろへ鐘が落ち、地面が大きく揺れる。
一瞬、音が消え、煙、土、泥、腕、腹の全部がかなり痛んだ。
それでも抱えた子どもは泣いている。生きている。それで良い。
「レオン!」
遠くから声が届く。
カミラが、本当の名前で呼んでいる。
目を開けると、煤で汚れた顔と短い黒髪がすぐ近くにあった。目には怒りと恐怖があり、泣きそうなのに泣かない。
「痛い?」
今度は命令ではない。低い声が少し震えている。
「かなり」
正直に答えると、カミラは少しだけ目を閉じた。
「馬鹿」
「ああ」
「本当に」
「ああ」
「戻れと言った」
「戻った」
「そういう意味じゃない」
右手が俺の頬へ触れる。
殴らない。
煤、血、傷を確かめるように押さえる。手は温かい。
非常に良い。
ただし、今は余計なことを言わない。
たぶん。
少しだけ、成長した。
──第四十五部 了




