第四十五部 白樺礼拝堂と、帰る場所を自分で決める話 ② 役割を分けて、広場の火
正面から広場へ入れば、すぐに火を付けられる。
巡察隊の兵士は二人。こちらには俺とカミラを足しても四人しかいない。丘の下には百人以上の人間がいて、護送班長は水車場へ残り、ベルント中尉も第七補給場にいる。
援軍を待つ時間はなかった。
鐘楼の裏側からは白い煙が細く上がっている。火鉢、たいまつ、黒松脂。準備は終わっている。
「出口を作る」
カミラが言った。
「広場の西側に、古い墓地へ抜ける石垣がある。高さは低い。人を誘導できれば、子どもと老人を先に逃がせる」
「火は」
「鐘楼の下に樋がある。雨水を貯める桶も残っている。礼拝堂の裏へ回れば、水を流せるかもしれない」
「鐘は」
俺が訊く。
カミラが、礼拝堂と鐘楼と太い綱を見る。
「鳴らせば、人が混乱する」
「違う鳴らし方なら?」
礼拝堂の鐘には、祈り、葬送、集会、火災で違う鳴らし方がある。旧街道の礼拝堂なら、昔から使われてきた合図が残っているはずだった。
「火事の鐘を鳴らす」
俺は言った。
「火を付けられる前に?」
「外へ出ろと分からせる」
カミラは少し考えたあと、俺を見た。
「できるのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「王子だった頃、鐘の鳴らし方を習った」
「役に立つ教育だったな」
「今まで、ほとんど使わなかった」
「今、使え」
正確だった。
◇
丘の下へ降りる前に、俺たちは役割を分けた。
巡察隊の兵士二人は西側の墓地へ回り、石垣を越える道を確保する。カミラは礼拝堂の裏へ入り、水桶と樋を探す。俺は鐘楼へ上がり、火事の鐘を鳴らす。
簡単ではない。
鐘楼へ向かうには、広場の外側を回り、白樺の間を抜ける必要がある。偽の兵士も、書記服もいる。誰が敵で、誰が命令されただけで、誰が本当に帝国軍なのか、一目では分からない。
「ロド」
カミラが言った。
「何だ」
「鐘を鳴らしたら、すぐに降りろ。上へ残るな」
「分かっている」
「あんたは、分かっていると言ったあとで余計なことをする」
「今回は、しない」
「本当に?」
「努力する」
カミラの目が細くなる。
「守る」
「最初から、そう言え」
それから、カミラは少しだけ迷い、俺の外套の襟元へ右手を伸ばした。乱れていた布を直すだけの、ほんの短い動きだった。
「戻れ」
低い声で言う。
「ああ」
「必ず」
命令ではない。たぶん、お願いに近い。
それでも、カミラはすぐに手を離した。
「護衛料が未払いだからな」
俺は言った。
「最低だな」
「傭兵だからな」
カミラの口元が、少しだけ緩む。
「帰ってきたら、払う」
「かなり期待している」
「金だ」
「分かっている」
「本当に?」
「努力する」
今度は肘が来なかったので、少しだけ惜しい。
◇
広場では、すでに演説が始まっていた。
演壇へ立っているのは偽のロド・カナリではなく、白い外套をまとい、顔の上半分を布で覆い、左肩へ白鷹の刺繍を付けた別の男だった。年齢は遠くからでは分からないが、人々は帰ってきた王子を見上げている。
俺の知らない俺を。
「長く待たせた」
少し低く、よく通る声が広場へ響く。練習しているのだろう。俺の声には似ていないが、ここにいる人々は今の俺の声を知らない。
「私は帰った。帝国との戦争を忘れたわけではない。父を失った痛みも、民を散らした冬も、忘れたわけではない」
人々の間から嗚咽が漏れる。
「だが、憎しみだけでは民を守れない。今は帝国北方軍の保護を受け、散った家族を集め、旧い村を立て直す」
一見すれば正しい。父、国、雪、散った民、戻る場所。その言葉を、俺でさえ少しだけ信じたくなる。
ただし、演壇の裏では書記服の男が火鉢へ近づき、たいまつへ火を移している。もう一人も礼拝堂の壁際へ進み、黒松脂の溝へしゃがみ込んだ。
時間がない。
俺は白樺の間を抜け、鐘楼の裏へ回った。石壁へ取り付けられた古い木戸には鍵が掛かっている。蹴っても開かず、左腕を使わないよう右肩を当てると木が大きく軋み、二度目でようやく内側へ倒れた。
狭い階段を、息を整えながら急いで上がる。ただし、転ばない。包帯の内側は熱く、痛みもあるが、まだ動ける。
鐘楼の上へ出ると、大きな鐘、太い綱、窓の向こうの広場、百人を超える人々、火鉢、白鷹旗、帝国の鷲、偽物の王子、そのすべてが一度に見えた。
右手だけで綱を掴み、強く引く。
鐘が、一度長く、二度短く、三度続けて鳴る。
火事の鐘。
旧街道の集落で、昔から誰もが知っている鳴らし方だった。
広場の人々が顔を上げ、偽の王子も、書記服の男も、帝国兵の外套を着た者も、鐘楼に立つ俺を見る。
「火事だ!」
俺は叫んだ。
「白樺の外へ出ろ! 荷物は置け! 子どもと老人を先に、西側の墓地へ回れ!」
一瞬、人々は動かず、それも当然だった。演壇には白い外套をまとった王子、鐘楼には焦げた眉、こぶ、包帯、煤の残る傭兵がいる。説得力にはかなりの差がある。悪い意味で。
「聞くな!」
演壇の男が叫ぶ。
「混乱を狙う扇動者だ! 帝国軍が保護する。列を乱すな!」
その言葉と同時に礼拝堂の壁際で火が上がり、黒松脂、藁、油を呑んだ低い炎が白樺の根元へ走った。人々の間から悲鳴が上がる。
「外へ出ろ!」
俺はもう一度叫んだ。
「忠誠も、登録も、あとでいい! 今は、生きろ!」
◇
火は最初から作られていた溝に沿い、演壇の横、荷車の下、礼拝堂の壁、白樺の根元をつないで広場を囲むように走った。出口を塞ぐように炎が広がり、煙が立ち上り、泣き出した子どもや転んだ老人を押しのけるように人々が一斉に動き始める。
それが、一番危険だった。
「西へ行け!」
カミラの声が礼拝堂の裏側から響く。
墓地へ抜ける石垣の近くに立ち、右手には雨水桶から外した木栓を持っている。鐘楼の下から続く樋を伝った水が広場の西側へ流れ、細い水路を作りながら炎の道を少しずつ切っていた。
「走るな! 子どもを抱け! 老人へ手を貸せ! 西側の石垣は低い、順番に越えろ!」
低いが、よく通る声だった。逃げるためではなく、守るための命令へ慣れている。
人々は少しずつ向きを変え、巡察隊の兵士二人も石垣の向こうへ立って、母親から子どもを受け取り、老人や少年へ手を伸ばしていく。
礼拝堂の正面では偽の帝国兵が剣を抜き、火の中へ戻ろうとしない者を怒鳴りつけていた。
「列を乱すな! 戻れ! 殿下の命令だ!」
殿下――俺の名前を使う、俺の知らない王子が、俺の知らない命令で人を火の中へ戻そうとしている。
鐘楼の綱を離し、階段へ向かった。
──第四十五部 了




