表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

240/287

第四十五部 白樺礼拝堂と、帰る場所を自分で決める話 ① 白樺礼拝堂へ続く道


 カミラが目を覚ましたのは、栗毛が小さな坂を下り、右側の蹄を柔らかい泥へ取られかけた時だった。


 背中へ預けられていた体温がわずかに揺れ、腰へ回っていた腕へ力が入る。柔らかく触れていた胸元まで一度だけ強く押しつけられ、俺は危うく、傭兵として守るべき優先順位を根本から見失いかけた。


 栗毛を止め、深く息を吸う。


 西北西へ延びる旧街道の先では、夕方の光が黒松林の向こうへ薄く残り、その中へ白樺の細い幹が少しずつ混ざり始めている。


 非常に危険な状況だった――主に、俺の理性にとって。


「着いたか」


 背中から、まだ眠気の残る低い声が聞こえた。


「まだだ。白樺礼拝堂までは、もう少し掛かる」


「どのくらい眠った」


「少し」


「正確には」


「半刻よりは短い。たぶん」


「最後の一言が信用を下げている」


 カミラはそう言ったものの、腰へ回した右腕をすぐには離さなかった。左肩を痛めている以上、馬上で体勢を保つには支えが必要なのだろう。理解しているし、極めて合理的な行動である。


 それでも、背中へ当たっているものが当たっている以上、人間として何も考えないという選択肢は存在しない。


「ロド」


「何だ」


「さっきから、馬が遅い」


「傷を開かないよう、慎重に進んでいる」


「本当に、それだけか」


「安全管理だ」


 少し間が空いた。


「その言葉は、禁止したはずだ」


「非常に困る」


 カミラは、ようやく腕を少しだけ緩めた。離れるのかと思ったが、完全には離れない。栗毛の背は広くなく、肩を傷めた女が後ろへ乗るなら、俺の腰へ腕を回す以外に安定する方法は少なかった。


 完全に合理的であり、それでも悪くない。


「何を考えている」


 カミラが訊いた。


「栗毛は賢いと思っている」


「ほかには」


「非常に良い仕事をしている」


「馬が?」


「主に馬が」


 腰へ回っていた右腕が、俺の脇腹へ少しだけ食い込んだ。


「痛い」


「傷は左腕だ」


「脇腹も大切だ」


「速度を戻せ」


「惜しい」


「何が」


「何でもない」


 栗毛を、本当に少しだけ速く歩かせる。


 前方には、北方第三巡察隊の兵士が二人いる。灰楡の水車場で護送班長から付けられた監視役でもある。


 片方の兵士が一度だけ後ろを振り返り、俺たちを見る。視線が合うと、何も言わずに前へ戻った。


 非常に良い兵士だった。



 ◇



 白樺礼拝堂へ続く街道は、帝国領の西端へ近づくにつれ、少しずつ姿を変えていった。


 道の両側へ立つ黒松は減り、代わりに白い樹皮を持つ細い木々が増えている。雪解け水は低地へ集まり、道端では春先の小さな黄色い花が泥の間から顔を出していた。


 旧五国連合の境へ入ったわけではなく、旧リュカリオンの土地までも、まだ少し距離がある。


 それでも、十年前の敗戦以前から使われていた古い道標が、街道の脇へ残っていた。


 正面には帝国の鷲と、北方街道、旧境まで二日という文字がある。ただし、裏側には削り取られた紋章の跡があり、完全には消えていない白い鷹の翼が、薄い傷のように残っていた。


 雪、王家、昔の国。


 俺は、その道標を長く見なかった。見れば、白い息、父の声、小さな手袋、まだ幼かったレイラの姿まで戻ってくる。形になりきらない記憶を追えば、今ここで見なければならないものを見失う。


「旧リュカリオンへ入ったわけではない」


 カミラが、背中から静かに言った。


「ああ」


「急ぐな」


「分かっている」


「道標を見て、顔が変わった」


「よく見ているな」


「監察官だからな」


 少しだけ間が空く。


「それだけではない」


 カミラは続けた。声は低いが、以前より近い。


「今は、あんたの隣を歩いている。どこを見るかくらいは分かる」


 返事が遅れた。


 非常に良い言葉だったが、すぐに調子へ乗れば、たぶん脇腹を締められる。


「監視料を請求される?」


「護衛料を払ってから言え」


「まだ覚えているのか」


「債権だからな」


「厳しい」


 カミラの声が、ほんの少しだけ緩んだ。


 それだけで十分だった。



 ◇



 礼拝堂へ近づくにつれ、人の姿が増えていった。


 最初は荷物を背負った老人が二人、次に小さな子どもの手を引く女、そのあとには毛布、木椀、薬包、古い家族札を持った人々が、街道の左右から少しずつ合流してくる。


 誰も縛られず、剣で追い立てられてもいないのに、向かう先は同じだった。


「礼拝堂へ行くのか」


 俺は、道端で休んでいた老人へ訊いた。


 老人は俺の焦げた眉と左腕の包帯を見たあと、背中へカミラを乗せた栗毛へ視線を移した。


「兄さんも、殿下に会いに行くのかい」


「殿下?」


「帰ってこられたそうだ」


 老人の声は震えず、泣いてもいなかったが、長いあいだ胸の奥へ押し込んできたものを、ようやく誰かへ話せる顔だった。


「王子様は生きていた。帝国と話をつけて、散った者を呼び戻してくださる。今夜、礼拝堂で言葉をくださるそうだ」


「誰から聞いた」


「青い札を持った若い人だよ。麦も薬も配ってくれた。娘の嫁ぎ先まで探してくれると言った」


 老人は外套の内側から、小さな紙札を取り出した。名前、年齢、旧居住地、家族。紙の端には、ごく細い青線が引かれている。


 カミラの腕が、俺の腰へ回ったまま少し固くなった。


「忠誠登録も?」


 カミラが訊く。


 老人は、俺の背中越しに聞こえた声へ驚き、少しだけ顔を上げた。


「ああ。王家へ戻る意思があるなら、名前を書けと言われた。別に難しい話じゃない。昔の国へ帰るだけだ」


「帰る場所は、残っているのか」


 カミラは静かに訊いた。


 老人は、すぐには答えなかった。


「家は焼けた。村も、たぶん残っていない。それでも、帰れと言われれば帰りたいと思う。馬鹿かもしれないが」


 馬鹿ではない、と俺は言えなかった。


 故郷も、家族も、失ったものも、戻れる可能性も、たとえ紙の上だけでも信じたいのだろう。責められない。本当に。


「礼拝堂へ着いても、家族札を全部渡すな」


 カミラが言った。


「なぜ」


「写しを取らせるなら、自分でも持て。誰か一人へまとめて渡すな。麦と薬は受け取っていい。ただし、行き先が分からない荷車へは乗るな」


 老人は、少し怪訝そうにカミラを見る。


「役人さんかい」


「便宜上、記録係だ」


「便宜上?」


「便利な言葉だ」


 俺が口を挟むと、腰へ回っていた腕へ少しだけ力が入った。


「痛い」


「黙れ」


 老人は俺たちを見て、ほんの少しだけ笑った。


「変わった夫婦だね」


 俺は、かなり早く返事をしようとした。


「違う」


 カミラが先に言った。非常に速い。


 ただし、耳が少しだけ赤い。


「まだ」


 俺が言うと、脇腹へ肘が入った。


「痛い」


「黙れと言った」


「負傷者へ配慮を」


「している。だから、軽くした」


「今のが?」


「もう一度確かめるか」


「遠慮する」


 老人は、今度こそ声を出して笑った。


 悪くない。かなり。



 ◇



 礼拝堂を見下ろせる丘へ着いた時、陽はすでに白樺の幹の向こうへ沈みかけていた。


 石造りの小さな礼拝堂、高くはない鐘楼、白樺の木々に囲まれた広場。昔は旅人や村人が祈り、雨を避け、冬には薪を分け合った場所だったのだろう。


 ただし、今夜の礼拝堂は祈るための場所ではない。


 広場には荷車が七台、白い布を張った演壇、旧リュカリオン王家の白鷹旗、帝国の鷲旗。鐘楼の下には大きな鐘があり、演壇の横には火鉢、広場の端には麦袋、薬箱、水桶、毛布が置かれている。


 さらに、白樺の幹へ細い白布が結ばれ、礼拝堂へ向かう道を作っていた。


 集まっている人は、百人を超えている。老人、女、子ども、働き盛りの男、兵士、書記服、荷役、帝国軍の古い外套を着た者、正規兵らしい者。遠くからでは区別がつかない。


「多い」


 巡察隊の兵士が低い声で言った。俺たちへ付けられた監視役の一人である。


「ここまで集めたのか」


「第七補給場だけではない」


 カミラは丘の上から広場全体を見ながら答えた。


「別の街道からも来ている。救恤所を一つ止めても、仕組みは止まらない」


 白樺の幹、礼拝堂の壁、演壇、荷車、火鉢、鐘楼、人、出口。全部を見る。


 気づく。


「白布の下」


 俺が言った。


「何だ」


「地面へ溝がある」


 演壇の横から礼拝堂の壁際へ、さらに荷車の車輪の近くへ、広場を囲むように浅い溝が走っている。湿った土に紛れているが、風が吹けば、黒松脂、油、乾いた藁の匂いが届いた。


 火を使えば、広場の外側から出口を塞ぐように燃える。


 カミラの顔から色が消えた。


「帰還劇ではない」


「ああ」


「集めたあとで、燃やす」


 低い声に、それでも怒りが滲む。


「旧臣民を集め、王子の名で忠誠を誓わせ、帝国軍の旗を立て、その場ごと焼く。残るのは、旧王家復活を名乗った扇動者と、帝国の保護命令に従わなかった群衆が暴動を起こし、火災で死んだという記録だ」


「誰が得をする」


「旧リュカリオンの名を使いたい者。帝国内で融和派を潰したい者。旧五国連合域を不安定にしたい者。戦争を終わらせたくない者」


 一つではなく、たぶん、それが一番厄介だった。


 円の中の目。青い細線。黒松脂。北方軍保安監督室。偽の王家印。偽のロド。


 それぞれが同じ目的だけで動いているとは限らないが、それでも今、人が燃やされる。


「止める」


 俺は言った。


「止める」


 カミラも答えた。



 ──第四十五部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ