第四十五部 白樺礼拝堂と、帰る場所を自分で決める話 ① 白樺礼拝堂へ続く道
カミラが目を覚ましたのは、栗毛が小さな坂を下り、右側の蹄を柔らかい泥へ取られかけた時だった。
背中へ預けられていた体温がわずかに揺れ、腰へ回っていた腕へ力が入る。柔らかく触れていた胸元まで一度だけ強く押しつけられ、俺は危うく、傭兵として守るべき優先順位を根本から見失いかけた。
栗毛を止め、深く息を吸う。
西北西へ延びる旧街道の先では、夕方の光が黒松林の向こうへ薄く残り、その中へ白樺の細い幹が少しずつ混ざり始めている。
非常に危険な状況だった――主に、俺の理性にとって。
「着いたか」
背中から、まだ眠気の残る低い声が聞こえた。
「まだだ。白樺礼拝堂までは、もう少し掛かる」
「どのくらい眠った」
「少し」
「正確には」
「半刻よりは短い。たぶん」
「最後の一言が信用を下げている」
カミラはそう言ったものの、腰へ回した右腕をすぐには離さなかった。左肩を痛めている以上、馬上で体勢を保つには支えが必要なのだろう。理解しているし、極めて合理的な行動である。
それでも、背中へ当たっているものが当たっている以上、人間として何も考えないという選択肢は存在しない。
「ロド」
「何だ」
「さっきから、馬が遅い」
「傷を開かないよう、慎重に進んでいる」
「本当に、それだけか」
「安全管理だ」
少し間が空いた。
「その言葉は、禁止したはずだ」
「非常に困る」
カミラは、ようやく腕を少しだけ緩めた。離れるのかと思ったが、完全には離れない。栗毛の背は広くなく、肩を傷めた女が後ろへ乗るなら、俺の腰へ腕を回す以外に安定する方法は少なかった。
完全に合理的であり、それでも悪くない。
「何を考えている」
カミラが訊いた。
「栗毛は賢いと思っている」
「ほかには」
「非常に良い仕事をしている」
「馬が?」
「主に馬が」
腰へ回っていた右腕が、俺の脇腹へ少しだけ食い込んだ。
「痛い」
「傷は左腕だ」
「脇腹も大切だ」
「速度を戻せ」
「惜しい」
「何が」
「何でもない」
栗毛を、本当に少しだけ速く歩かせる。
前方には、北方第三巡察隊の兵士が二人いる。灰楡の水車場で護送班長から付けられた監視役でもある。
片方の兵士が一度だけ後ろを振り返り、俺たちを見る。視線が合うと、何も言わずに前へ戻った。
非常に良い兵士だった。
◇
白樺礼拝堂へ続く街道は、帝国領の西端へ近づくにつれ、少しずつ姿を変えていった。
道の両側へ立つ黒松は減り、代わりに白い樹皮を持つ細い木々が増えている。雪解け水は低地へ集まり、道端では春先の小さな黄色い花が泥の間から顔を出していた。
旧五国連合の境へ入ったわけではなく、旧リュカリオンの土地までも、まだ少し距離がある。
それでも、十年前の敗戦以前から使われていた古い道標が、街道の脇へ残っていた。
正面には帝国の鷲と、北方街道、旧境まで二日という文字がある。ただし、裏側には削り取られた紋章の跡があり、完全には消えていない白い鷹の翼が、薄い傷のように残っていた。
雪、王家、昔の国。
俺は、その道標を長く見なかった。見れば、白い息、父の声、小さな手袋、まだ幼かったレイラの姿まで戻ってくる。形になりきらない記憶を追えば、今ここで見なければならないものを見失う。
「旧リュカリオンへ入ったわけではない」
カミラが、背中から静かに言った。
「ああ」
「急ぐな」
「分かっている」
「道標を見て、顔が変わった」
「よく見ているな」
「監察官だからな」
少しだけ間が空く。
「それだけではない」
カミラは続けた。声は低いが、以前より近い。
「今は、あんたの隣を歩いている。どこを見るかくらいは分かる」
返事が遅れた。
非常に良い言葉だったが、すぐに調子へ乗れば、たぶん脇腹を締められる。
「監視料を請求される?」
「護衛料を払ってから言え」
「まだ覚えているのか」
「債権だからな」
「厳しい」
カミラの声が、ほんの少しだけ緩んだ。
それだけで十分だった。
◇
礼拝堂へ近づくにつれ、人の姿が増えていった。
最初は荷物を背負った老人が二人、次に小さな子どもの手を引く女、そのあとには毛布、木椀、薬包、古い家族札を持った人々が、街道の左右から少しずつ合流してくる。
誰も縛られず、剣で追い立てられてもいないのに、向かう先は同じだった。
「礼拝堂へ行くのか」
俺は、道端で休んでいた老人へ訊いた。
老人は俺の焦げた眉と左腕の包帯を見たあと、背中へカミラを乗せた栗毛へ視線を移した。
「兄さんも、殿下に会いに行くのかい」
「殿下?」
「帰ってこられたそうだ」
老人の声は震えず、泣いてもいなかったが、長いあいだ胸の奥へ押し込んできたものを、ようやく誰かへ話せる顔だった。
「王子様は生きていた。帝国と話をつけて、散った者を呼び戻してくださる。今夜、礼拝堂で言葉をくださるそうだ」
「誰から聞いた」
「青い札を持った若い人だよ。麦も薬も配ってくれた。娘の嫁ぎ先まで探してくれると言った」
老人は外套の内側から、小さな紙札を取り出した。名前、年齢、旧居住地、家族。紙の端には、ごく細い青線が引かれている。
カミラの腕が、俺の腰へ回ったまま少し固くなった。
「忠誠登録も?」
カミラが訊く。
老人は、俺の背中越しに聞こえた声へ驚き、少しだけ顔を上げた。
「ああ。王家へ戻る意思があるなら、名前を書けと言われた。別に難しい話じゃない。昔の国へ帰るだけだ」
「帰る場所は、残っているのか」
カミラは静かに訊いた。
老人は、すぐには答えなかった。
「家は焼けた。村も、たぶん残っていない。それでも、帰れと言われれば帰りたいと思う。馬鹿かもしれないが」
馬鹿ではない、と俺は言えなかった。
故郷も、家族も、失ったものも、戻れる可能性も、たとえ紙の上だけでも信じたいのだろう。責められない。本当に。
「礼拝堂へ着いても、家族札を全部渡すな」
カミラが言った。
「なぜ」
「写しを取らせるなら、自分でも持て。誰か一人へまとめて渡すな。麦と薬は受け取っていい。ただし、行き先が分からない荷車へは乗るな」
老人は、少し怪訝そうにカミラを見る。
「役人さんかい」
「便宜上、記録係だ」
「便宜上?」
「便利な言葉だ」
俺が口を挟むと、腰へ回っていた腕へ少しだけ力が入った。
「痛い」
「黙れ」
老人は俺たちを見て、ほんの少しだけ笑った。
「変わった夫婦だね」
俺は、かなり早く返事をしようとした。
「違う」
カミラが先に言った。非常に速い。
ただし、耳が少しだけ赤い。
「まだ」
俺が言うと、脇腹へ肘が入った。
「痛い」
「黙れと言った」
「負傷者へ配慮を」
「している。だから、軽くした」
「今のが?」
「もう一度確かめるか」
「遠慮する」
老人は、今度こそ声を出して笑った。
悪くない。かなり。
◇
礼拝堂を見下ろせる丘へ着いた時、陽はすでに白樺の幹の向こうへ沈みかけていた。
石造りの小さな礼拝堂、高くはない鐘楼、白樺の木々に囲まれた広場。昔は旅人や村人が祈り、雨を避け、冬には薪を分け合った場所だったのだろう。
ただし、今夜の礼拝堂は祈るための場所ではない。
広場には荷車が七台、白い布を張った演壇、旧リュカリオン王家の白鷹旗、帝国の鷲旗。鐘楼の下には大きな鐘があり、演壇の横には火鉢、広場の端には麦袋、薬箱、水桶、毛布が置かれている。
さらに、白樺の幹へ細い白布が結ばれ、礼拝堂へ向かう道を作っていた。
集まっている人は、百人を超えている。老人、女、子ども、働き盛りの男、兵士、書記服、荷役、帝国軍の古い外套を着た者、正規兵らしい者。遠くからでは区別がつかない。
「多い」
巡察隊の兵士が低い声で言った。俺たちへ付けられた監視役の一人である。
「ここまで集めたのか」
「第七補給場だけではない」
カミラは丘の上から広場全体を見ながら答えた。
「別の街道からも来ている。救恤所を一つ止めても、仕組みは止まらない」
白樺の幹、礼拝堂の壁、演壇、荷車、火鉢、鐘楼、人、出口。全部を見る。
気づく。
「白布の下」
俺が言った。
「何だ」
「地面へ溝がある」
演壇の横から礼拝堂の壁際へ、さらに荷車の車輪の近くへ、広場を囲むように浅い溝が走っている。湿った土に紛れているが、風が吹けば、黒松脂、油、乾いた藁の匂いが届いた。
火を使えば、広場の外側から出口を塞ぐように燃える。
カミラの顔から色が消えた。
「帰還劇ではない」
「ああ」
「集めたあとで、燃やす」
低い声に、それでも怒りが滲む。
「旧臣民を集め、王子の名で忠誠を誓わせ、帝国軍の旗を立て、その場ごと焼く。残るのは、旧王家復活を名乗った扇動者と、帝国の保護命令に従わなかった群衆が暴動を起こし、火災で死んだという記録だ」
「誰が得をする」
「旧リュカリオンの名を使いたい者。帝国内で融和派を潰したい者。旧五国連合域を不安定にしたい者。戦争を終わらせたくない者」
一つではなく、たぶん、それが一番厄介だった。
円の中の目。青い細線。黒松脂。北方軍保安監督室。偽の王家印。偽のロド。
それぞれが同じ目的だけで動いているとは限らないが、それでも今、人が燃やされる。
「止める」
俺は言った。
「止める」
カミラも答えた。
──第四十五部 了




