第四十四部 灰楡の水車場と、背中へ預けられた眠りの話 Another Side:リューリック
リューリックと、眠れる場所を記録する女の話
南側戦線へ近い灰十字医療団の分院では、夜が深くなっても灯りが消えなかった。
王国、ブリエン、レヴォナへつながる南側の街道では、戦闘そのものが大きく動いていない日でも、怪我人と病人が途切れない。荷車から落ちた者、古傷を悪化させた兵士、熱を出した子ども、冬を越して体力を失った老人、偽の移送札を持たされたまま行き先を失った人々が、順番に診療所へ運ばれてくる。
病室の隅へ置かれた椅子には、リューリックが座っていた。
本来なら、寝台へ横になるべき患者である。
右脇腹には包帯。
左肩にも固定布。
剣は手の届く場所へ置いている。
それでも、眠らない。
目を閉じれば。
主がどこかでまた何かを増やす。
怪我。
借り。
面倒。
そして。
守る必要がなかったはずの誰か。
「寝なさい」
ヴェロニカが言った。
寝台の脇で診療記録を確かめている。
イタリカ軍医として戦場を歩いてきた女の声は、丁寧に頼むためのものではない。
「異論は、治ってから聞く。今は寝ろ」
「まだ、確認すべき記録がございます」
「ない」
「しかし」
「ない。エルゼ」
「はい」
ヴェロニカが顔を上げずに言う。
「この男から紙を取り上げろ。椅子も退けろ。剣は届かない場所へ置け」
「最後だけは、たぶん抵抗されます」
エルゼは軽い声で答えた。
病棟記録係として働く女は、机へ積まれた紙を一枚ずつ整え、リューリックの膝へ置かれていた移送記録を静かに抜き取った。
「お返しください」
「返しません」
「重要な照合が」
「あります。ですが、今夜中に全部読む必要はありません」
エルゼは、椅子の隣へ立った。
明るい声。
柔らかい表情。
それでも。
目は、よく見ている。
誰が。
どの程度。
疲れているか。
どこまでなら。
動かしてよいか。
「リューリックさん」
エルゼが言った。
「記録は逃げません」
「人は、逃げます」
「だから、残します」
エルゼは手に持った紙を、机の上へ置いた。
同じ名前。
違う年齢。
違う傷。
違う移送元。
紙の端へ引かれた。
ごく細い。
青い線。
「昼の荷車で届いた移送札です。同じ名の患者が二人いました。ですが、傷も年齢も違います。別人です」
リューリックの目が少しだけ細くなる。
「青い細線」
「はい。ヴィクトル・グレイの青いインクとは違います。知らせるための色ではなく、分けるために使われている可能性があります」
ヴェロニカが記録から顔を上げた。
「今夜は、そこまでだ」
「軍医殿」
「寝ろ」
「しかし」
「寝ろ」
迷いのない声だった。
「お前が倒れれば、明日読む人間が一人減る。守りたいなら、まず寝ろ」
リューリックはしばらく何も言わなかった。
反論はある。
たぶん。
かなり。
それでも椅子の背へ少しだけ体を預ける。
「寝台へ移りますか」
エルゼが訊く。
「ここで結構です」
「駄目です」
「しかし」
「ヴェロニカ先生から、椅子も退けろと言われました」
エルゼは笑った。
「命令です」
「あなたまで」
「実績があります」
リューリックはほんの少しだけ目を閉じた。
疲れている。
三年間探した。
一人で見つけた。
救った。
それからずっと止めてきた。
守ってきた。
今は離れている。
だから眠れない。
エルゼはそれを全部は知らない。
だが眠れない人間の顔は知っている。
「起きた時に」
エルゼは静かに言った。
「紙は残っています。私もいます。だから、少しだけ寝てください」
リューリックは返事をしなかった。
ただ少しずつ呼吸が深くなる。
眠った。
本当に。
エルゼは机の上へ置かれた記録へ戻った。
同じ名前。
違う傷。
青い細線。
南側戦線。
王国。
ブリエン。
レヴォナ。
北で起きていることをまだ知らない。
それでも同じ色が別の道へ少しずつ伸びている。
エルゼは記録の端へ小さく書いた。
同名患者を統合しないこと。
傷、年齢、移送元を照合すること。
紙を一か所へまとめないこと。
そして。
眠っている人間は起こさないこと。
──Another Side 了




