第四十四部 灰楡の水車場と、背中へ預けられた眠りの話 ④ 帰る場所は自分で決めろ、痛めた脚
灰楡の水車場での対峙は、すぐには終わらなかった。
北方軍保安監督室直属護送班は、正式な封蝋と命令書を持っていた。
救恤対象者を治安維持上の理由で保護する。
旧籍照合済みの者を、別の施設へ移送する。
混乱を防ぐため、武装集団、偽造文書、扇動者を拘束する。
文面だけを見れば、すべて理解できる。
ただし。
移送先は書かれていない。
責任者も。
期間も。
家族への連絡方法も。
拒否した者の扱いも。
医療体制も。
フォーゲル大尉が昨日指摘した穴が。
そのまま。
残っている。
巡察隊の副官は、譲らなかった。
「負傷者、子ども、老人は、第三宿駅へ戻す。救恤は続ける。旧籍照合と移送は中止する。それが、第三宿駅で確認された命令です」
護送班長も、譲らない。
「保安監督室の命令が上位だ」
「では、書いてください」
「何を」
「誰を、どこへ、何の権限で、何日間移し、誰が医療を担当し、家族へどう連絡し、本人が拒否した場合にどう扱うか。帝国軍の名で人を動かすなら、書いてください」
周囲が。
少しだけ。
静かになる。
麦粥を持った女。
子どもを抱く母親。
杖を持つ老人。
巡察隊。
護送班。
偽の白鷹旗。
帝国の鷲。
全部が。
聞いている。
護送班長は。
しばらく。
副官を見た。
そのあと。
俺とカミラを見る。
「お前たちは」
低い声で言う。
「何者だ」
「便宜上」
俺が言う。
「傭兵と、鉱山の記録係だ」
カミラが。
俺の靴を。
踏んだ。
「痛い」
「余計なことを言うな」
いつもの。
少しだけ。
戻る。
水車場。
帝国軍。
偽王家。
人々。
かなり真面目な場面である。
それでも。
俺の靴は。
正確に。
踏まれる。
悪くない。
かなり。
「命令書を写させろ」
カミラが言った。
「何だと」
「保安監督室の命令が正規なら、写しを残せるはずだ。誰が発行し、誰が受領し、誰が現場へ持ってきたか、ここで立会人を付けて残す。救恤対象者の名簿と混ぜるな。持ち帰るなら、原本と写しを別々の道へ送れ」
「拒否すれば」
「紙を残せない理由があると記録する」
護送班長は。
カミラを見た。
表情が。
少しだけ。
変わる。
「お前」
言う。
「カミラ・パヴェルか」
水車場の空気が止まった。
帝国軍から。
保護拘束命令が出ている。
イタリカ監察官。
公文書持ち出し。
逃亡。
黒い髪。
左肩の負傷。
条件は。
揃っている。
カミラは。
逃げなかった。
「そうだ」
答えた。
低く。
迷わず。
俺は、カミラを見る。
隠せた。
たぶん。
頭巾を深く被り。
黙り。
逃げることも。
できた。
それでも。
名乗った。
紙を残すために。
ここにいる人々を。
名前のない荷物へ。
戻さないために。
「拘束する」
護送班長が言った。
「所持書類を渡せ」
「断る」
「正式命令だ」
「正式なら、写しを残せ」
「カミラ」
俺が言う。
カミラは。
こちらを見ない。
「下がれ」
「断る」
「あんたまで拘束される」
「護衛料が未払いだ」
カミラの目が。
少しだけ。
動く。
「今、それを言うのか」
「重要だ」
「最低だな」
「傭兵だからな」
俺は。
カミラの隣へ立つ。
左腕は使えない。
右手も。
剣へ掛けない。
巡察隊。
護送班。
人々。
水。
泥。
火。
ここで。
剣を抜けば。
終わる。
「拘束するなら」
俺は言った。
「先に、命令書を写せ」
「お前に関係はない」
「ある」
「何が」
「俺の名前で、人を集めている」
護送班長の目が。
少しだけ。
細くなる。
「ロド・カナリ」
俺は言った。
「便宜上は」
少し。
間を置く。
カミラが。
こちらを見る。
止めない。
たぶん。
必要だと。
分かっている。
「本当の名は」
言う。
「レオン・ヴァン・リュカリオン」
水車場の中で。
誰も。
すぐには。
声を出さなかった。
白鷹旗。
帝国の鷲。
麦粥。
薬。
泥。
水。
子ども。
老人。
巡察隊。
護送班。
カミラ。
全部が。
同じ場所へある。
「偽の帰還令へ、俺の名前がある」
俺は続けた。
「偽の演説にも。俺は帰還を命じていない。忠誠登録も、移送も、集積も許可していない」
声が。
思っていたより。
落ち着いている。
「俺の名前で集まるな」
はっきり言う。
「俺の名前で、勝手に死ぬな」
中庭の端で。
白髪の老人が。
泣いた。
声を上げず。
ただ。
肩を震わせた。
信じたのか。
信じていないのか。
分からない。
それでも。
俺は。
続ける。
「麦は受け取れ。薬も。寝床も。生きるために必要なら、使え。ただし、俺の名前へ忠誠を誓うな。俺の名前で、どこか分からない場所へ行くな」
カミラが。
隣にいる。
手首へ。
触れる。
ほんの少しだけ。
今度は。
止めるためではない。
ここにいると。
伝えるため。
俺は。
言う。
「帰る場所は、自分で決めろ」
◇
護送班長は、すぐには動かなかった。
俺を見ている。
信じていない。
当然だった。
額にはこぶ。
眉は焦げている。
頬には煤。
左腕には包帯。
王子として。
かなり。
説得力がない。
それでも。
白鷹旗の下へ集められた人々は。
俺を見ている。
偽のロドではなく。
俺を。
「証明は」
護送班長が訊いた。
「今はない」
「なら」
「だから、命令書を写せ」
俺は答えた。
「俺が本物か偽物かは、あとで調べればいい。だが、行き先も責任者も書かれていない命令で、人を動かすな」
巡察隊の副官が。
静かに。
頷いた。
「同意します」
護送班長は。
副官を見る。
「貴様」
「帝国軍の名で、人を動かすなら、残します。誰が、どの紙で、誰を、どこへ動かそうとしたか」
しばらく。
水車の音だけが。
続いた。
回る。
水。
木。
軋む。
止まらない。
「写せ」
護送班長が言った。
低い声だった。
「ただし、救恤対象者は、ここへ留める。勝手に散らすな。第三宿駅から医者を呼べ。子どもと老人を優先する。名簿は、原本と写しを分ける」
完全な勝利ではない。
拘束も。
消えていない。
命令も。
残っている。
それでも。
今すぐ。
どこか分からない場所へ。
人々が。
運ばれることは。
止まった。
「カミラ・パヴェル」
護送班長が言う。
「逃げるな」
カミラは答えなかった。
「レオン・ヴァン・リュカリオンと名乗る男」
俺を見る。
「お前もだ」
「努力する」
カミラの右足が。
俺の靴へ。
載る。
「痛い」
「守る、と言え」
「守る」
護送班長は。
俺たちを見ていた。
ほんの少しだけ。
眉を寄せる。
たぶん。
理解できない。
正しい。
俺も。
少し。
理解できない。
◇
命令書の写しを作る間に、灰色の牝馬が脚を痛めていることが分かった。
水車場へ入る時、水へ驚いた馬が横へずれ、古い木材へ脚を当てたらしい。
骨は折れていない。
ただし。
今日。
乗せるべきではない。
巡察隊の衛生兵は、馬の脚へ布を巻きながら言った。
「第三宿駅へ戻す。歩かせれば悪化する」
残る馬は。
栗毛。
一頭。
俺は。
カミラを見る。
カミラも。
栗毛を見る。
少し。
間が空く。
「二人で乗る」
カミラが言った。
「非常に合理的だ」
「顔が最低だ」
「何も言っていない」
「考えている」
「人の内心を証拠なしで断定するな」
「実績がある」
正確だった。
ただし。
今回は。
かなり。
重要である。
栗毛へ先に乗る。
左腕を使わない。
右手で手綱を持つ。
カミラが。
後ろへ乗る。
左肩を動かしにくいため。
右腕が。
俺の腰へ回る。
細い腕。
背中へ。
近い体温。
さらに。
馬が歩き始めると。
胸元が。
背中へ。
柔らかく。
当たる。
非常に。
良い。
かなり。
俺は。
人間として。
傭兵として。
男として。
この状況へ。
最大限。
感謝した。
ただし。
すぐに。
後ろから。
声がした。
「速度を上げるな」
「非常に難しい要求だ」
「傷を開く」
「別の理由もある」
「言うな」
「まだ何も」
「考えるな」
「それは無理だ」
カミラの右腕へ。
少しだけ。
力が入る。
腰へ回った腕。
背中へ触れる体温。
悪くない。
かなり。
俺は。
栗毛を。
少しだけ。
ゆっくり歩かせた。
そのうち。
背中へ触れていたカミラの額が。
少し。
重くなる。
呼吸が。
ゆっくり。
整う。
眠った。
また。
今度は。
馬の上で。
俺の背中へ。
体を預けて。
非常に良い。
かなり。
ただし。
今日は。
得を数えない。
あとで。
全部。
思い出す。
たぶん。
何度も。
だが。
今は。
落とさない。
それだけでいい。
「レオン」
カミラが。
眠ったまま。
小さく呼んだ。
俺は。
前を見る。
西北西。
まだ。
帝国領。
旧五国連合の境は。
もう少し先。
偽のロドは。
逃げた。
白樺礼拝堂へ。
俺の知らない王子が。
先へ進んでいる。
それでも。
急ぎすぎない。
背中へ預けられた眠りを。
落とさない速度で。
俺は。
栗毛を。
西北西へ。
歩かせた。
──第四十四部 了




