第四十四部 灰楡の水車場と、背中へ預けられた眠りの話 ③ 水門が開いて
予定が決まるまで、長くは掛からなかった。
巡察隊の兵士一人が林側から樋へ回り、もう一人が水車小屋の裏手へ近づく。
副官は、正面側へ残る。
俺とカミラは斜面を下り、川沿いの木々へ隠れながら、水車小屋の横へ回った。
中庭では、左頬へ傷を持つ男が演壇へ上がった。
手には紙がある。
俺の知らない演説。
聞く。
「旧リュカリオンの民よ」
声は、よく通る。
落ち着いている。
練習したのだと思う。
「長く待たせた」
俺の知らない俺が。
俺の知らない言葉を。
話している。
「殿下は帰還された。長い苦難を越え、グランデル帝国北方軍との協議を終え、散った民を守るために戻られた。今夜、旧境へ近い白樺礼拝堂で、殿下ご自身が皆へ言葉を伝える」
人々の間で、低い声が上がった。
帰った。
本当に。
王子が。
生きていた。
老人が泣く。
胸の前で手を組む女がいる。
信じたい。
当然だった。
戦争で国を失った。
家族を失った。
家を失った。
散った。
耐えた。
それでも生きた。
そこへ。
帰ってきたと言われる。
麦を渡される。
薬を渡される。
家族を探すと言われる。
信じたい。
本当に。
「殿下は、皆へ約束された」
偽のロド・カナリは続ける。
「忠誠を示す者を守る。王家へ戻る者を守る。疑わず、列を乱さず、今夜の移送へ従う者を守る」
言葉が。
少しずつ。
変わる。
守る。
から。
従え。
へ。
救う。
から。
疑うな。
へ。
帰る。
から。
集まれ。
へ。
カミラの右手が。
俺の手首へ触れた。
止めるため。
ただし。
強くは握らない。
俺が飛び出さないと。
少しだけ。
信じている。
「まだだ」
カミラが言う。
「ああ」
俺は答えた。
怒っている。
腹の奥は冷たい。
それでも。
今は。
守る順番を間違えない。
◇
水門が開いた。
最初は、音だけだった。
古い木が軋む。
川の流れが樋へ入り、止まりかけていた水車がゆっくり回り始める。
男たちが振り向く。
さらに、水量が増える。
大きな水車が速度を上げ、樋から溢れた水が中庭の低い場所へ流れ込んだ。
「何だ!」
「水門を閉めろ!」
演壇の前へいた人々が動揺する。
だが、流れは膝まで届くほどではない。
足首。
少し上。
荷車の車輪が泥へ沈む。
馬が驚く。
男たちの動きが乱れる。
「北方第三巡察隊だ!」
副官の声が響いた。
「救恤対象者は、その場で伏せろ! 旧籍照合と移送は中止されている。帝国軍の正式命令だ!」
巡察隊の兵士が中庭へ入る。
木橋。
林側。
水車小屋。
三方向。
演壇の周囲にいた男たちは、すぐには反応できなかった。
偽の帝国軍外套。
正規の帝国軍。
遠くから見れば似ている。
だが、今は違う。
立つ場所。
声。
命令。
動き。
全部が違う。
「紙を燃やせ!」
誰かが叫んだ。
水車小屋の入口にいた男が火鉢へ走る。
カミラが先に動いた。
左肩を庇いながら、中庭へ入り、右手で拾った木匙ほどの太さの棒を投げる。
棒は男の手首へ当たった。
火打石が落ちる。
男が振り向く。
カミラへ向かう。
俺も走る。
ただし。
転ばない速度で。
水。
泥。
木箱。
子ども。
老人。
偽のロド。
火。
全部を見る。
男がカミラへ短剣を振る。
俺は間へ入る。
右手だけで剣を抜き、短剣を外へ流す。
刃が触れる。
火花。
左腕は使わない。
半歩ずれる。
柄頭を顎へ入れる。
男が沈む。
殺す必要はない。
「火!」
カミラが言う。
別の男が倉庫脇の火鉢へ近づいている。
巡察隊の兵士が間に合わない。
俺は走る。
だが、その途中で。
小さな子どもが泥へ足を取られ、倒れた。
母親は少し離れている。
火鉢へ向かう男。
子ども。
距離。
両方は無理だ。
偽のロドは。
演壇の裏へ下り。
紙束を抱え。
木橋へ走っている。
追えば。
捕まえられる。
たぶん。
だが。
子どもがいる。
「ロド!」
カミラの声。
判断。
迷わない。
剣を鞘へ戻す。
子どもへ走る。
泥へ膝をつき。
抱き上げる。
熱い。
泣いている。
生きている。
「母親は」
見る。
中庭の端。
女が走ってくる。
子どもを渡す。
「走るな。転ぶ」
「ありがとう」
「礼はあとでいい」
火鉢へ向かった男は、巡察隊の兵士が止めていた。
短い格闘。
剣が落ちる。
拘束。
だが。
偽のロドは。
木橋へ出ている。
「追う!」
俺が言う。
カミラも木橋へ向かった。
だが、木橋の向こうから。
新しい馬の音が聞こえた。
帝国軍。
今度は。
十騎以上。
整った外套。
鷲の印。
先頭には、黒い軍帽を被った男がいる。
胸元へ。
北方軍保安監督室。
直属護送班。
正式な印。
偽のロドは、木橋の中央で立ち止まった。
向こうから来た護送班へ。
手を上げる。
「こちらです!」
叫ぶ。
「旧臣民を攫おうとする武装集団が侵入しました! 王家の使者を保護してください!」
巡察隊。
護送班。
どちらも。
帝国軍の制服。
どちらも。
鷲の印。
中庭には。
救恤対象者。
子ども。
老人。
麦。
薬。
旗。
水。
火。
そして。
俺の名前。
誰が。
正しいのか。
一目では。
分からない。
護送班の先頭にいる男が、馬上から声を張った。
「双方、剣を下ろせ!」
低く。
慣れた声だった。
「北方軍保安監督室直属護送班である。旧五国出身者を含む救恤対象者は、治安維持のため帝国軍の保護下へ移す。抵抗する者は、拘束する」
正式な命令。
たぶん。
本物。
少なくとも。
偽のロドと同じ種類ではない。
だが。
だから。
安心できるわけでもない。
「全員を移す?」
俺が言うと、カミラは低い声で答えた。
「正規の命令だとしても、止める必要がある」
「なぜ」
「保護という言葉だけで、行き先が書かれていない」
同じだった。
灰鐘関所。
第三宿駅。
第七補給場。
そして。
灰楡の水車場。
正式な言葉。
正しい形。
だが。
空白がある。
「副官」
カミラが叫んだ。
「剣を下ろせ。ただし、紙と人を渡すな。救恤対象者を一か所へまとめるな!」
巡察隊の副官は、一瞬だけ迷った。
それでも。
命じる。
「剣を下ろせ! 負傷者と子どもを優先しろ! 名簿、旧籍照合表、移送札は分けて保全する!」
護送班の先頭にいる男の眉が動いた。
「誰の命令だ」
「北方第三巡察隊、ベルント中尉および第三宿駅フォーゲル大尉の命令です」
「保安監督室の命令が上位だ」
「では、移送先、責任者、医療体制、家族への連絡方法、拒否した者の扱いを示してください」
副官の声は固い。
だが。
引かない。
昨日。
フォーゲル大尉が。
同じことを言った。
正式な命令なら。
全部書け。
護送班の男は、すぐには答えなかった。
その間に。
偽のロドが。
少しずつ。
木橋の向こうへ。
下がっていく。
「止まれ!」
俺が言う。
偽のロドは。
こちらを見る。
左頬の傷。
黒い髪。
俺の名前を着た顔。
ほんの少し。
笑った。
「遅いな」
言った。
カミラが。
再会した時に。
言った。
同じ言葉。
腹の奥へ。
冷たいものが落ちる。
偽のロドは、護送班の馬の間へ入り、そのまま向こう側の林へ走った。
追う。
そう思った。
だが。
水車場には。
人がいる。
護送班。
巡察隊。
子ども。
老人。
証拠。
偽の王家。
ここで走れば。
また。
守る順番を間違える。
カミラの右手が、俺の手首へ触れた。
今度は。
止めるためだけではない。
俺が。
止まれると。
信じている。
「レオン」
カミラが言った。
本当の名前。
「今は、ここだ」
俺は。
偽のロドが消えた林を見る。
追える。
たぶん。
少しだけなら。
だが。
「分かっている」
答える。
「守る」
カミラの手が。
少しだけ。
緩む。
「最初から、そう言え」
──第四十四部 了




