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第四十四部 灰楡の水車場と、背中へ預けられた眠りの話 ② 灰楡の水車場が見える

 五分を少しだけ越えた頃、カミラは目を開けた。


 最初に動いたのは右手だった。


 腰の短剣へ伸びる。


 次に、周囲を見る。


 川。


 灰楡。


 副官。


 兵士。


 俺。


 そして。


 自分の肩へ掛けられた外套。


 最後に、頭が俺の肩へ載っていることへ気づく。


 少しだけ。


 固まった。


「起きた?」


 俺が訊く。


 カミラは、すぐには離れなかった。


 一呼吸。


 それから、ゆっくり体を起こす。


「何もしていないだろうな」


「かなり努力した」


「努力?」


「見ない努力」


 カミラの目が細くなる。


「見たのか」


「途中まで」


「どこを」


「非常に難しい質問だ」


 カミラの右手が動く。


 だが、止まった。


 俺の左腕を見る。


 傷。


 包帯。


 肩。


 殴らない。


 代わりに。


 俺の外套を畳み、返す。


「ありがとう」


 低い声だった。


 小さい。


 それでも。


 確かに。


 言った。


 俺は、少しだけ返事が遅れた。


「非常に珍しい」


「何が」


「礼を言われた」


「返せ」


「もう少し聞いてもいい」


「調子に乗るな」


 カミラは立ち上がった。


 耳が。


 少しだけ。


 赤い。


 悪くない。


 かなり。



 ◇



 灰楡の水車場は、川沿いの低地へ作られていた。


 古い製粉所と聞いていたが、完全に捨てられているわけではない。


 石造りの水車小屋。


 川から水を引く木製の樋。


 大きな水車。


 製粉用の倉庫。


 灰楡の木が立つ中庭。


 馬小屋。


 川を越えるための細い木橋。


 さらに、建物の正面には、急ごしらえの演壇が置かれている。


 白い布。


 白鷹の印。


 帝国の鷲。


 二つ。


 並んでいる。


 演壇の前には、二十人ほどが集められていた。


 老人。


 女。


 子ども。


 男。


 荷物。


 毛布。


 薬包。


 木椀。


 縄で縛られている者はいない。


 兵士に囲まれているようにも見えない。


 ただし。


 中庭の出入口には、帝国軍の外套を着た男が立っている。


 川を越える木橋にも。


 倉庫の前にも。


 水車小屋の横にも。


 全部で八人ほど。


 さらに、演壇の脇には。


 左の頬へ傷を持つ男がいた。


 若い。


 三十歳前後。


 黒い髪。


 俺より少し背が低い。


 第七補給場の宿駅長が話していた。


 昨日。


 ロド・カナリと名乗り。


 小さな木箱を運び。


 西へ向かった男。


「偽物」


 俺が言うと、カミラは目を細めた。


「まだ動くな」


「あいつがロド・カナリ?」


「可能性は高い」


「俺の顔の方が良い」


「今は張り合うな」


「重要だ」


「全く重要ではない」


 正確だった。


 だが。


 少しだけ。


 腹が立つ。


 偽の名前を使うなら。


 もう少し。


 顔へ。


 責任を持ってほしい。



 ◇



 俺たちは、水車場を見下ろせる斜面へ伏せた。


 巡察隊の副官は兵士を二人ずつに分け、川沿い、林側、木橋の近くへ回している。


 まだ正面から入らない。


 中庭へ集められた人々がいる。


 何も知らず、麦粥を食べている子どもがいる。


 演壇の近くには、火鉢も見える。


 黒松脂を使うなら、紙だけでは済まない。


「火種」


 俺が言うと、カミラも頷いた。


「演壇の横。倉庫の脇。水車小屋の入口。三か所」


「燃やす準備?」


「見せるための火かもしれない。夜まで待ち、王子の帰還を演出するために灯す可能性もある」


「どちらにしても、火へ近づかせない」


「ああ」


 水車小屋の裏には、川から水を引く樋の水門がある。


 古い。


 木製。


 開けば、水量が増える。


 水車が速く回る。


 さらに。


 溢れた水は、中庭の低い場所へ流れる。


「使える?」


 俺が訊くと、カミラは樋を見た。


「水門を開けば、中庭の下側へ水が入る。荷車は動かしにくくなる。ただし、開けすぎれば人も転ぶ」


「少しだけ開く」


「誰が」


「俺が」


「左腕は」


「右手がある」


「また傷を開く」


「副官へ頼む?」


 カミラは少し考えた。


「兵士を一人借りる。あんたは、別のことをしろ」


「何を」


 カミラは、演壇の脇へいる偽のロド・カナリを見た。


「あの男は、紙を持っている。次へ進む道も知っている。逃がすな」


「了解」


「ただし」


 カミラは、俺を見る。


「子どもと、老人と、火を先に見ろ」


「偽物より?」


「偽物より」


 俺は、少しだけ息を吐いた。


「守る」


「最初から、そう言え」



 ──第四十四部 了


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