第四十四部 灰楡の水車場と、背中へ預けられた眠りの話 ① 林道と、背中へ預けられた眠り
旧北路第七補給場を出た時、空はすでに昼の青さを失い始めていた。
春先の陽は長くなっている。それでも、黒松林の中へ入れば光は早く薄くなる。木々の根元には雪解け水が残り、馬の蹄が柔らかい土へ沈むたび、湿った落ち葉と黒い泥の匂いが上がった。
先へ出た北方第三巡察隊の副官と六人の兵士は、灰楡集積地へ向かう古い林道を確かめながら、少し距離を置いて進んでいる。
俺とカミラは、そのあとを追っていた。
急いでいないわけではない。
昨夜、第七補給場から西北西へ運び出された第一便には、三十四人が乗せられている。老人、女、子どもを含む。紙の上では救恤対象者、旧籍照合済み、移送予定者とだけ書かれていたが、荷車へ乗せられた一人ずつに生活があり、家族があり、戻るつもりだった場所がある。
俺の名前で集められた。
俺の知らない王子の言葉で。
俺の知らない場所へ。
それでも、馬を潰すほど走らせれば、着いた時に動けない。
左腕へ巻き直した包帯は、少しずつ熱を持っていた。血が再び滲むほどではないが、馬の揺れが続くたび、傷の奥へ鈍い痛みが残る。
栗毛の馬も、こちらの体調を分かっているらしい。
朝は外套を噛み、俺の人格へ疑問を呈していたくせに、今は灰色の牝馬へ歩調を合わせ、無理に前へ出ようとしない。
非常に賢い。
少し腹が立つ。
「痛いか」
前を走っていたカミラが、少しだけ速度を落として訊いた。
「我慢できる」
「痛いかと訊いた」
「少し痛い」
「最初から、そう答えろ」
以前なら、大丈夫だと言った。
もう少し前なら、歩けると答えた。
剣も握れる。
馬にも乗れる。
だから問題ない。
そういう言葉を積み重ねたあとで倒れ、寝台へ運ばれ、誰かへ叱られてきた。
完全に学んだとは言わない。
それでも、同じ嘘を毎回つくほど愚かではない。
たぶん。
「お前の肩は」
俺が訊くと、カミラは前を向いたまま答えた。
「動かすと痛い。ただし、手綱は持てる」
「正直だな」
「誰かと違って、学習が早い」
「俺も成長している」
「昨日から?」
「一晩あった」
カミラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
何度目かの言葉である。
それでも、以前と同じではない。
最初は、俺の無謀さへ苛立っていた。
今も、たぶん苛立っている。
だが、その下へ別のものが混ざり始めている。
俺が本当に倒れないか。
傷を開かないか。
戻ってくるか。
それを確かめる声だった。
悪くない。
かなり。
◇
林道を半刻ほど進んだところで、先行していた副官が右手を上げた。
隊列が止まる。
道の端には、一台の荷車が傾いていた。
左側の車輪が泥へ沈み、軸が折れている。荷台には毛布、空の木椀、乾いた麦袋が残されていたが、人の姿はない。
副官は馬を降り、轍と足跡を確かめた。
「荷車は昨夜のものです。車輪が折れたあと、人を降ろし、歩かせています」
「何人」
カミラが訊く。
「正確には分かりません。ただ、子どもの足跡があります。杖の跡も二人分。荷車へ残っていた毛布の数を考えると、十人前後でしょう」
「ほかの荷車は」
「西へ進んでいます。ここで分けた可能性があります」
道の先は二つへ分かれていた。
一方は、古い林道をそのまま西北西へ進む。
もう一方は、小さな川へ沿って南側へ下りていく。
水の音が聞こえる。
灰楡の水車場。
ベルント中尉が話していた古い製粉所跡は、川沿いにある。
カミラは馬を降り、泥へ残る足跡を見た。
老人。
子ども。
成人。
兵士の靴。
荷車を押した跡。
ただし、血はない。
「歩かせた」
カミラが言った。
「急いで運びたいなら、車輪が折れた荷車を捨て、残りへ詰め込む方法もある。それをせず、十人前後だけを川沿いへ下ろした」
「灰楡へ連れていく必要がある人間を選んだ?」
「あるいは、見せる必要がある人間を」
見せる。
旗。
鐘。
演壇。
椅子。
配布用の麦。
薬。
王家の印。
俺の知らない演説。
人を集めるだけではない。
王子が帰ったと信じさせるために、舞台を作っている。
「副官」
カミラが言った。
「兵を二人、林道へ残せ。残りは川沿いへ下りる。ただし、馬を近づけすぎるな。水車場へ正面から入れば、向こうへ先に見つかる」
副官は一瞬だけ迷った。
カミラの身分を知らない。
表向きは鉱山の記録係である。
それでも、第七補給場での救出、記録の分散、拘束者の分類を見ている。
「分かりました」
短く答え、兵士へ指示を出した。
俺は栗毛から降りようとした。
鐙へ足を掛ける。
右手で鞍を押さえる。
左腕を使わない。
ここまでは完璧だった。
ただし、地面へ降りた瞬間、傷の奥へ強い痛みが走り、ほんの少しだけ体勢が崩れた。
カミラが手を伸ばした。
右腕で、俺の腰を支える。
「大丈夫か」
「かなり良い」
「何が」
「支え方が」
カミラの眉が寄る。
いつもなら、肘か靴か木筒が飛んでくる。
だが、今は来なかった。
代わりに、俺が自分の足で立てたことを確かめてから、静かに手を離す。
「ふざける余裕があるなら歩けるな」
「非常に冷静だ」
「殴れば傷が増える」
「成長した?」
「私がな」
正確だった。
少しだけ。
惜しい。
◇
川沿いの道は、林道よりさらに細かった。
灰楡の木が水辺へ枝を伸ばし、古い根が地面から浮き上がっている。雪解け水を集めた川は普段より流れが速く、ところどころで白い泡が立っていた。
馬は林の奥へ残した。
副官と兵士四人は、少し先を進んでいる。
俺とカミラは後ろから続いた。
急ぐ。
だが、足元を見ずに走らない。
左腕を動かさない。
呼吸を乱さない。
以前なら、誰かに言われるまで守れなかったことを、自分で一つずつ確かめる。
面倒である。
本当に。
ただし、生きて戻るためには必要だった。
川が大きく曲がる場所へ差し掛かった時、カミラの歩調が少し遅くなった。
肩だけではない。
顔色も良くない。
再会してから、ほとんど休んでいない。
黒松林。
灰鐘関所。
第三宿駅。
第七補給場。
逃げながら。
紙を守り。
人を助け。
俺を止め。
たぶん、まともに眠っていない。
「少し休む」
俺が言うと、カミラはすぐに首を横へ振った。
「先へ行く」
「半刻はいらない。水を飲むだけだ」
「必要ない」
「必要だ」
カミラがこちらを見る。
少しだけ驚いた顔だった。
いつも逆である。
止まれと言うのはカミラで、進めると言うのは俺だった。
「顔色が悪い」
俺は言った。
「元からだ」
「嘘だ」
「監察官へ嘘だと言うのか」
「実績がある」
カミラは、しばらく俺を見た。
それから、少しだけ息を吐いた。
「五分だけだ」
「短い」
「あんたが言うな」
川辺の灰楡には、太い根が地面から張り出していた。
俺たちは、その根元へ腰を下ろした。
水袋を渡す。
カミラは一度に飲まず、少しずつ口へ含んだ。
正しい。
非常に。
俺も干し肉を噛み、水を飲む。
左腕の傷は痛い。
だが、まだ動ける。
それより。
隣に座ったカミラの呼吸が、いつもより少し浅い。
「眠い?」
俺が訊くと、カミラは顔を上げた。
「眠くない」
「嘘だ」
「少しだけだ」
「正直だな」
「誰かと違って、学習が早い」
カミラは、灰楡の幹へ背中を預けた。
五分。
水を飲むだけ。
そう言った。
だが、目を閉じたあと、呼吸は少しずつ深くなった。
眠った。
本当に。
俺の隣で。
再会してから、初めて。
カミラは、警戒心が強い。
寝る場所を選ぶ。
背中を預ける壁を選ぶ。
出入口を確かめる。
紙の置き場所を変える。
右手が武器へ届く位置を守る。
その女が。
川の音が聞こえる灰楡の根元で。
俺の隣へ座り。
眠った。
最初に思ったのは。
非常に良い。
かなり。
頭巾の端から覗く短い黒髪。
いつもより力の抜けた頬。
少し開いた唇。
外套の襟元。
白い首筋。
視線を下げれば。
たぶん。
いろいろ。
見える。
見たい。
かなり。
人間として。
傭兵として。
男として。
極めて自然な欲求だった。
ただし。
カミラは、眠っている。
警戒を解いて。
俺の隣で。
それを利用するのは。
何かが違う。
惜しい。
本当に。
かなり。
俺は自分の外套を外し、カミラの肩へ掛けた。
左肩へ触れないよう、ゆっくり。
起こさないように。
すると、カミラの頭が少し傾いた。
俺の肩へ当たる。
軽い。
温かい。
今度は。
完全に。
事故である。
俺は動かなかった。
安全確認も。
重心の記憶への定着も。
必要ない。
ただ。
落とさない。
それだけでいい。
川の音が続いている。
少し離れた場所では、副官たちが周囲を確かめている。
灰楡の枝が風で揺れる。
カミラの呼吸が。
肩へ。
小さく。
触れる。
悪くない。
かなり。
「ロド」
カミラが、目を閉じたまま言った。
「起きた?」
「まだ」
寝言に近い声だった。
「逃げるな」
「逃げない」
「紙を」
「持っている」
「倒れるな」
「守る」
カミラは、それ以上何も言わなかった。
また、眠る。
俺は、少しだけ目を細めた。
ニーナの指示を思い出したわけではない。
リューリックなら何と言うかを考えたわけでもない。
ただ。
今は。
この女が眠れる五分を守る。
それでいい。
──第四十四部 了




