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第四十三部 俺より先に帰還した王子と、俺の知らない演説の話 ① 角笛の返しと、ベルント中尉

 倉庫の外で二度鳴った角笛へ、林の向こうから別の音が返った。


 低く、短く、間を置かずにもう一度。


 黒松林の中を通ってきた音は、湿った木々へ吸い込まれながらも、旧北路第七補給場の広場まで確かに届いている。


 俺は偽造された帰還令を両手で持ったまま、倉庫の扉の前へ立った。


 紙を折らない。


 汚さない。


 燃やさない。


 俺の名前を勝手に使い、旧リュカリオンの王家が帰還したと告げるために作られた紙であっても、今は証拠である。腹の奥へ沈んだ怒りへ任せて破れば、相手の望むとおりになる。


 隣では、カミラが布へ包んだ偽の王家印と、移送予定表、青い細線が引かれた仮身元証明書を革袋へ分けていた。


「出る前に確かめる」


 低い声で言い、倉庫の壁へ寄せられた小窓から広場を見る。


「角笛が鳴ったからといって、フォーゲル大尉の巡察隊とは限らない」


「味方のふりをした偽物が、偽物を片付けに来る可能性もある?」


「ああ。ここまで紙と制服を使える相手だ。疑えるところは、疑え」


 カミラは頭巾の端を少し持ち上げ、外を見た。


 左肩を傷めているため、いつものように素早く外套を整えることはできない。それでも、視線は落ち着いている。焦りも、苛立ちも、今は内側へ押し込んでいる。


 倉庫の外では、兵舎の周辺へ集まっていた男たちが動きを止めていた。


 正規軍から奪ったのか、古い倉庫から持ち出したのか分からない帝国兵の外套を着ている。それでも、門へ立つ者は剣へ手を掛け、広場の奥にいた者は逃げ道を探すように周囲を見ていた。


 命令へ従っているというより、自分だけが生き残る方法を探している顔だった。


「来る」


 カミラが言った。


 林道の向こうから、騎兵が姿を現した。


 最初に見えたのは四騎。


 少し遅れて六騎。


 その後ろには、徒歩の兵士が八人ほど続いている。


 数だけなら多くはない。


 だが、先頭の兵士が馬を止める位置、後方の二人が左右へ散る順番、門の前へ弓を持った兵士を残す動きに迷いがない。


 昨日、補給場で見た男たちとは違う。


 立つ場所を知っている。


 互いの役割を知っている。


 制服を着ているだけではない。


「正規軍に見える」


 俺が言うと、カミラはすぐには頷かなかった。


「見えるだけだ」


「厳しいな」


「生き残るためだ」


 正確だった。



 ◇



 先頭の騎兵は、門の前で馬を止めた。


 三十代半ばほどに見える男だった。


 兜の下から覗く髪は短く、頬には古い切り傷が一本残っている。装飾の多い鎧ではないが、胸元には北方第三巡察隊の印があり、剣帯も靴もよく手入れされていた。


「北方第三巡察隊、ユリウス・ベルント中尉だ」


 よく通る声だった。


「第三宿駅のフォーゲル大尉から命令を受けた。旧北路第七補給場を保全する。負傷者と救恤対象者を優先し、旧籍照合と移送は止める」


 門の内側にいた男の一人が、少し遅れて前へ出た。


 古い帝国軍外套を着ている。


 剣も持っている。


 だが、姿勢は固い。


「こちらは北方軍保安監督室の管理地です」


 男は言った。


「正式な命令に基づき、旧五国出身者を保護しています。巡察隊へ引き渡す必要はありません」


「救恤は」


 ベルント中尉が訊いた。


 男は、一瞬だけ黙った。


「何を」


「救恤は、どうする」


「保安監督室で継続します」


 ベルント中尉の表情は変わらなかった。


 ただし、隣にいた兵士が静かに槍を構える。


「違うな」


 中尉は言った。


「フォーゲル大尉の命令は、救恤を止めるな、旧籍照合だけを止めろ、だ。答えを知らないなら、あんたは大尉から連絡を受けていない」


 男の目が動いた。


 門。


 林。


 騎兵。


 徒歩の兵士。


 逃げ道。


 ほんの一瞬だけ迷い、そのあと剣へ手を掛ける。


「拘束しろ」


 ベルント中尉が命じた。


 巡察隊の兵士が二人、門へ入る。


 男は剣を抜いた。


 ただし、正面へ来る兵士へ向けたのではない。


 腰の内側へ隠していた短い刃を逆手に持ち替え、すぐ隣にいた別の男の喉元へ突きつけた。


「来るな!」


 仲間を人質にした。


 人質にされた男の顔が引きつる。


「俺は命令されただけだ。こいつも同じだ。近づけば殺す」


「それで、どこへ逃げる」


 ベルント中尉が訊いた。


「馬を寄越せ」


「林道の先には、別の隊が回っている」


「嘘だ」


「試すか」


 中尉の声は変わらない。


 焦らせない。


 怒鳴らない。


 だが、少しずつ逃げ道を消していく。


 男は人質の首元へ刃を押しつけた。


 薄く血が滲む。


 その時。


 倉庫の裏手で、別の音がした。


 木箱が倒れる。


 足音。


 走る。


 見る。


 灰色の書記服を着た男が、倉庫の裏口へ回り込んでいる。


 腰には短剣。


 右手には黒松脂の小瓶。


 左手には火打石。


 俺たちが持ち出す前に、倉庫ごと燃やすつもりだ。


「カミラ」


「ああ」


 声を掛ける必要は、それだけで足りた。


 俺は偽の帰還令をカミラへ渡し、右手で剣を抜いた。


 左腕は使わない。


 昨日の矢傷は浅いが、無理に力を入れれば開く。


 それでも、倉庫へ火を付けられれば、紙だけでは済まない。風向きによっては馬小屋へ移り、広場へ残っている負傷者や、林へ逃がした人々の退路まで塞ぐ。


 書記服の男が火打石を鳴らす前に距離を詰めた。


 こちらへ気づく。


 小瓶を投げようと腕を上げる。


 右へ踏み込む。


 剣の腹で手首を打つ。


 骨へ当たる鈍い感触。


 小瓶が落ちる。


 割れない。


 男は短剣を抜き、俺の腹へ突き込もうとした。


 半歩だけ外へずれる。


 左腕は使えない。


 右手だけで刃を受け流し、柄頭を顎へ叩き込む。


 男の膝が落ちる。


 もう一度。


 今度は、こめかみへ。


 倒れる。


 殺す必要はない。


 火壺へ火は入っていない。


 短剣も落ちた。


 動かない。


「一人」


 俺が言うと、カミラはすでに動いていた。


 人質を取った男の背後へ回り込んでいる。


 左肩は使えない。


 それでも、右手だけで地面へ落ちていた縄を拾い、足元へ投げる。


 縄が男の足首へ絡む。


 男は反射的に視線を下げた。


 ほんの一瞬。


 ベルント中尉が前へ出る。


 人質の腕を引き、刃の軌道から外す。


 同時に、カミラが男の膝裏へ蹴りを入れた。


 体勢が崩れる。


 巡察隊の兵士が二人、すぐに肩と腕を押さえ込む。


 短い刃が石畳へ落ちた。


「縛れ」


 ベルント中尉が言った。


 声は低い。


 だが、今度は少しだけ怒りが混ざっている。


「同じ外套を着た人間を盾にした時点で、兵士を名乗るな」


 男は何も答えなかった。


 歯を食いしばり、石畳へ頬を押しつけられたまま動かない。


 広場へ残っていた者たちのうち、二人は武器を捨てた。


 一人は林へ逃げようとしたが、外へ回っていた巡察隊の兵士に捕まる。


 残る者は、倉庫の裏へ倒れている。


 黒松脂の小瓶は割れていない。


 火も出ていない。


 紙も残った。


 俺は剣を下ろした。


 左腕へ鈍い痛みが走る。


 包帯の内側へ、少しだけ熱が広がった。


 開いたかもしれない。


 だが。


 まだ立てる。


「腕」


 カミラが言った。


「浅い」


「見せろ」


「今は」


「見せろ」


 反論できない声だった。


 俺は剣を鞘へ戻し、裂けた包帯の端を見せた。


 血が滲んでいる。


 大量ではない。


 それでも、白かった布へ赤い線が広がっていた。


 カミラは一度、目を閉じた。


 怒っている。


 たぶん。


 かなり。


「五分と言った」


「まだ三分くらいだ」


「時間の話ではない」


「走らなかった」


「剣は抜いた」


「火を止めた」


「あんたは、正しい時だけ余計に腹が立つな」


 カミラは低い声で言い、革袋から止血布を出した。


 怒っている。


 だが、手つきは丁寧だった。



 ──第四十三部 了


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