第四十二部 旧北路第七補給場と、俺の知らない王子の話 Another Side:ニーナ
ニーナと、薬を渡すために要らない名前の話
リンデン診療所では、朝から子どもの泣き声が続いていた。
流行病と呼ぶほどではない。
それでも冬を越した直後は体力を落とした子どもが熱を出しやすく、咳、腹痛、食欲不振、脱水を訴える患者が重なる。診察室の前には母親たちが並び、待合室の椅子だけでは足りないため、廊下にも小さな木椅子が追加されていた。
ニーナは薬包へ名前を書きながら、母親へ確認する。
「この粉薬は、朝と夜に一回ずつ。水は一度にたくさん飲ませなくても大丈夫です。少しずつ、何度も飲ませてください。吐いた時、熱が上がった時、ぐったりして起きない時は、すぐに連れてきてください」
「ありがとうございます」
「食べられるなら、柔らかい物を少しずつ。無理に食べさせなくても大丈夫です」
母親は子どもを抱き直し、何度も頭を下げた。
診療所の奥では、白髪の元軍医が別の患者の胸へ耳を当てている。ニーナの父ではない。十年前に流行病で亡くなった父の診療所へ、その後居候のように住み着き、必要な時だけ口を出す引退軍医である。
「次」
老人が言った。
「寝かせて待たせろ。立たせるな」
「はい」
薬を渡す。
水を飲ませる。
熱を測る。
包帯を替える。
誰が、いつ、どの薬を受け取り、どの程度の熱があり、何を食べられたかを残す。
地味な仕事である。
それでも、誰かが戻るために必要な仕事だった。
昼を少し過ぎた頃、旅商人が診療所へ一枚の紙を持ってきた。
「町道の掲示板にも貼っておきました」
青いインクで刷られた臨時号だった。
救恤所で、家族の名前を全部書くな。
麦粥を受け取るために、祖父の名前を書く必要はない。
熱冷ましを受け取るために、死んだ兄弟の移住先を書く必要もない。
ニーナは紙を最後まで読んだ。
旧五国連合域に関係する人々を対象として、家族名、旧居住地、親族の移転先、古い札、印章を集めている救恤所がある。
紙の端へ、ごく細い青線を引く者がいる。
青い活字社が記事へ使う青いインクとは違う。
知らせるための青ではなく。
分けるための青。
「これ」
ニーナは元軍医へ紙を渡した。
老人は黙って読み、少しだけ眉を寄せた。
「写せ」
「何枚」
「十枚。いや、十五枚。診療所、薬問屋、井戸、宿、町道の掲示板。患者にも見せろ」
「薬を渡す時に、家族の名前まで訊かれた方がいたら?」
「止めろ」
老人は即座に答えた。
「薬を渡すために、祖父の名前はいらん」
ニーナは頷き、診療所にある普通の黒いインクで注意書きを写し始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
青いインクではない。
それでも、残る。
広がる。
燃やされない数まで。
机の端には、空の硝子管が置かれていた。
以前、馬鹿な傭兵へ渡した物と同じ大きさの管である。
思い出す。
勝手に無理をする。
痛くても歩けると言う。
食べなくても大丈夫だと言う。
少し休めば何とかなると言う。
あの男は今、どこにいるのか。
誰かに止められているのか。
たぶん、止められている。
そうでなければ、また何かを増やしている。
怪我。
こぶ。
借り。
面倒。
そして、守らなくてもいいはずの誰か。
ニーナは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「馬鹿」
誰にも聞こえない声で言う。
それから次の紙へ、同じ注意書きをもう一度、丁寧に写した。
──Another Side 了




