第四十二部 旧北路第七補給場と、俺の知らない王子の話 ④ 俺の知らない王子、俺自身の手で
広場から三人が走ってきた。
一人は古い制服、一人は革鎧、最後の一人は灰色の書記服を着ている。黒い外套ではないが、腰には短剣、手には火壺があった。
紙だけではない。
人ごと燃やすつもりだ。
「止まれ!」
俺は叫んだ。
男たちは止まらない。
最初に来た古い制服の男は剣を振り上げ、俺の右肩へ刃を落とした。左腕を使えば正面から押し返せるが、今はできない。半歩だけ外へずれ、相手の力を流し、返した刃を肩口へ入れる。
深くは入れない。
動きを止める程度でいい。
男は叫び、剣を落とした。
続いて来た革鎧の男は棍棒を振り回したが、踏み込みが大きすぎる。避けたあとで腹へ蹴りを入れ、崩れた顎へ剣の柄を当てる。
男は地面へ落ちた。
だが、書記服の男は、その間に火壺へ火打石を近づけている。
走る。
間に合え。
火打石が鳴り、火花が飛ぶ。
俺は剣を振った。
刃が、火壺を持つ手首へ入る。
血が飛ぶ。
男の手と火壺が地面へ落ち、壺だけが割れ、黒松脂の匂いが一気に広がった。
火は付いていない。
まだ。
男は自分の手首を見たあと、喉の奥から声にならない音を漏らし、膝から崩れた。
俺は剣を下ろした。
殺してはいない。
だが、手は落とした。
必要だった。
遅れれば兵舎へ火が回り、排水路へ入った人々へ煙が流れた。捕らえるために近づけば、火壺が投げられた。
だから斬った。
軽くはない。
それでも、間違ってはいない。
「ロド!」
カミラの声が飛ぶ。
排水路へ人を入れ終えたらしい。
「最後だ!」
カミラが走ってくる。
広場の向こうからは、さらに四人ほど見張りが近づいていた。
「行くぞ」
「ああ」
倒れた男の短剣を遠くへ蹴り、割れた壺から流れた黒松脂へ砂を掛け、俺たちは転ばない速度で排水路へ走った。
◇
林の中へ出ると、救い出した人々は斜面の下にある窪地へ集まっていた。
泣いている子どもがいる。
咳をしている老人がいる。
足を痛めた男を、別の男が肩へ担いでいる。
それでも、生きている。
外へ出た。
まだ終わってはいない。
「第三宿駅へ戻る道は」
老女が訊く。
カミラは街道図を開いた。
「旧石橋を使う。道は細いが、林の中を進めば見つかりにくい。巡察隊が来る可能性もある」
「あなたたちは」
「残る」
俺が答えた。
「補給場の中を確かめる」
カミラは、俺の左腕と顔色を順番に見た。
「五分だけだ」
「短い」
「五分で紙を持って戻れ。追うのは、そのあとだ」
「非常に厳しい」
「倒れたら、運搬手当を取る」
「払えるのか」
「出世払いだ」
昨日、俺が言った言葉を返される。
悪くない。
◇
補給場へ戻る前に、カミラは老女へ三枚の紙を渡した。
「第三宿駅へ着いたら、フォーゲル大尉を探せ。灰鐘関所のヘルマン副書記官でもいい。一枚は大尉へ。一枚は副書記官へ。残りは自分で持て」
「全部を渡さないのかい」
「一か所へまとめれば、まとめて燃やされる」
「怖いねえ」
「ああ」
カミラは慰めるために嘘を言わない。
「だが、一枚だけなら燃やされる。三枚なら、一枚は残るかもしれない。誰かが覚えていれば、また書ける」
老女はしわのある手で紙を握った。
震えている。
それでも、離さない。
「名前は」
カミラが訊く。
「マルタ・ハイン」
「分かった。マルタ、戻れ」
名前を書く。
名前を残す。
名前を消されないように。
それでも、名前だけで人間をまとめない。
カミラは、それを知っている。
◇
補給場へ戻ると、広場の見張りは兵舎の周辺へ集まり、排水路から逃げた人々を追うか、倒れた男を助けるか、紙を燃やすかで判断を割らせていた。
正規軍ではない。
命令が一つ崩れると、動きも崩れる。
俺とカミラは兵舎の裏から倉庫へ回った。
鍵は掛かっている。
蹴れば開くが、音が出る。
カミラは右手で細い金具を出し、鍵穴へ差し込んだ。
「開けられるのか」
「監察官は、役所の鍵へ触ることがある」
「非常に便利だな」
「悪用するな」
「覚えておく」
「忘れろ」
金具を少し動かすと、鍵は小さな音を立てて外れた。
中へ入る。
倉庫には、空の仮身元証明書、未記入の移送札、封蝋、印章、紙箱が積まれていた。
帝国の鷲。
救恤調整室。
保安監督室。
旧リュカリオン王家。
すべてが同じ机の上へ並んでいる。
紙へ押せば、人が動く。
薬が届く。
荷車が出る。
関所が開く。
家族が離れる。
人が集まる。
国さえ作られる。
偽物でも。
俺は机へ置かれた旧リュカリオン王家の印を見た。
雪の上へ翼を広げる白い鷹。
昔、父の執務室にあった。
同じ形。
ただし、翼の先へ、ごく細い青線が入っている。
「偽物だ」
俺が言うと、カミラは印を持ち上げ、底へ残った顔料を確かめた。
「形は、かなり正確だ。昔の印を見た人間が作ったか、原版へ触れた人間がいる」
「青い細線と同じ色?」
「ああ」
円の中の目。
青い細線。
黒松脂。
偽の命令。
帝国の鷲。
旧リュカリオン王家の印。
それぞれ別の場所で見つかったものが、少しずつ同じ机へ集まっている。
「これを持つ」
カミラは印を布へ包み、必要な記録だけを選び始めた。
移送予定。
第七補給場。
次の行き先。
荷車。
人数。
責任者。
受領者。
俺も机の上へ積まれた紙束をめくる。
旧リュカリオン、ノルデン、リヴェン、レヴォナ、旧五国連合の村と家族と名前が、何枚もの紙へ分けられている。
その中に、一枚だけ、厚い紙があった。
帝国の鷲と旧リュカリオン王家の印が並んでいる。
上には大きく、こう書かれていた。
旧リュカリオン王家臨時帰還令。
旧臣民は、王家の保護下へ集まれ。
帝国北方軍は、旧臣民の移動を保護する。
旧居住地へ戻る者には、食料、薬、仮住居、就労を与える。
そして最下部には、署名がある。
レオン・ヴァン・リュカリオン。
俺の名前。
さらに、帝国北方軍保安監督室。
連名。
俺は紙を見たまま動けなかった。
王子へ戻る気はない。
国を取り戻すために人を集める気もない。
俺の名前で頭を下げろとも、戦えとも、死ねとも言ったことはない。
それでも紙の上では、俺は帝国と手を組み、旧臣民へ帰ってこいと命じている。
「レオン」
カミラが言った。
倉庫の中には、帝国の鷲、偽の王家の印、紙箱、封蝋、黒松脂、青い細線がある。
その全部の中で。
声だけが近い。
「今は、持って戻る」
「ああ」
「怒るのは、あとでいい」
「ああ」
「走るな」
「努力する」
カミラの目が細くなる。
「守る」
「最初から、そう言え」
俺は偽の帰還令を折らずに持った。
皺を付けない。
燃やさない。
証拠として残す。
その時、倉庫の外で角笛が鳴った。
低い音が二度、林の向こうへ響き、少し遅れて別の角笛が返す。
巡察隊。
フォーゲル大尉が言っていた。
昼前に来る。
早い。
だが、悪くない。
カミラは倉庫の扉へ向かった。
「戻るぞ」
「ああ」
偽の帰還令を持つ。
俺の知らない王子。
俺より先に帰っていた王子。
そいつを止める。
俺自身の手で。
──第四十二部 了




