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第四十二部 旧北路第七補給場と、俺の知らない王子の話 ③ 兵舎の人々と、仮身元証明書

兵舎の裏口には、外から簡素な閂が掛けられていた。


 中からは、咳、子どもの泣き声、低い話し声が聞こえる。


 カミラは周囲へ一度視線を走らせ、広場側へ立つ見張りが裏手を気にしていないことを確かめてから、右手だけで閂を外した。


 扉を細く開く。


 古い兵舎の中には、三十人ほどが集められていた。


 老人、母親、子ども、足を痛めた男、毛布へ包まれた女、薬包を握ったまま壁へ背を預ける少年。


 檻ではない。


 縄で縛られているわけでもない。


 食事、水、毛布、薬も与えられている。


 だからこそ、逃げにくい。


 保護されているように見える。


 ただし、扉は外から閉められていた。


 最初にこちらへ気づいたのは、白髪の老女だった。


「兵隊さん?」


「違う」


 俺は答えた。


「第三宿駅から来た。ここへ連れてこられた人を確認している」


 老女は俺の額のこぶ、焦げた眉、頬へ残る煤、左腕の包帯、腰の剣を順番に見た。


「随分、ひどい顔だね」


「少しだけ損傷した」


「少し?」


「かなり」


 老女の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 緊張している場所で、誰かが少し笑う。


 大きなことではない。


 だが、悪くない。


「ここへ来たのは、いつ」


 カミラが訊いた。


「夜中だよ。麦粥と寝床がある。朝になったら、仕事を紹介する場所へ連れていくと言われた」


「どこへ」


「分からない。西だとだけ」


「何を書いた」


「昔の村、夫の名前、息子の名前、娘が嫁いだ先、父と母の名前、戦争前に住んでいた家の場所まで書いたよ。そうすれば、散った家族を探してくれると言った」


 老女は少しだけ視線を落とした。


「十年前から会っていない娘がいる。生きているかも分からない。それでも、名前を書けば探してくれると言われたら、書くよ」


 責められない。


 俺でも、レイラの名前をどこかへ書けば探してもらえると言われたら迷う。


 少しではない。


 かなり。


「ほかの人は」


 カミラが訊く。


「先に行ったよ。夜のうちに荷車が二度出た」


「西へ?」


「ああ」


 補給場は終点ではない。


 人を集め、分け、さらに西へ運ぶための中継地点だった。


「急ぐ必要がある」


 俺が言うと、カミラは迷わず頷いた。


「ただし、先にここを出す」


 正確だった。



 ◇



 兵舎にいた人々の多くは、紙を折り、紐で首から下げられるようにした仮身元証明書を持たされていた。


 名前、年齢、旧居住地、家族構成、移送先。


 そして、紙の端には、ごく細い青線が一本引かれている。


「捨てるな」


 カミラが言うと、老女は不安そうに札を握った。


「持っていた方がいい?」


「ああ。ただし、誰か一人へ全部渡すな。写せるなら写す。今は、ここを出る」


「兵隊さんに見つかったら」


「外にいるのは正規兵ではない可能性が高い」


「帝国の鷲があるよ」


「鷲があるから、正しいとは限らない」


 カミラは老女だけでなく、兵舎にいる全員へ聞こえるように、ゆっくり言葉を選んだ。


「食事をもらったことと、名前を全部渡すことは別だ。薬をもらったことと、どこかへ運ばれることも別だ。助けてもらったからといって、説明もない場所へ行く必要はない」


 それでも、人々はすぐには動かなかった。


 怖い。


 当然だった。


 昨日から歩き、熱を出した子どもを抱え、ようやく食事と寝床へたどり着いた。外には帝国の制服を着た男がいて、扉は閉められている。


 そこへ突然、顔にこぶと煤と血の跡がある傭兵と、頭巾を被った黒髪の女が現れ、今すぐ逃げろと言っている。


 かなり怪しい。


 本当に。


「信用できない?」


 俺が訊くと、老女は困った顔をした。


「正直に言えば、少し」


「正しい判断だ」


 俺は言った。


「俺たちだけを信用する必要はない。外へ出たら第三宿駅へ戻れ。宿駅長のオットー・ベルナーを探せ。灰鐘関所から来る巡察隊もある。フォーゲル大尉という男の名前を出せ」


「あなたは」


 老女が訊いた。


「ロド・カナリ」


 言ったあとで、少しだけ苦くなる。


 この名前も、すでに使われている。


「昨日、その名前の人が来た」


 老女は言った。


「若い男だった。左の頬に傷があった。王子様のために、人を集めていると言っていた」


 胸の奥が冷える。


「王子?」


「ああ。紙もあるよ」


 老女は兵舎の奥を指した。


 壁へ貼られた紙には、帝国の鷲、救恤調整室の印、旧籍照合班の署名があり、その下には見覚えのある紋章が押されている。


 雪の上へ翼を広げる白い鷹。


 旧リュカリオン王家の印だった。


 偽物である。


 少なくとも、この紙へ俺が許可を出したことはない。


 それでも、子どもの頃から見てきた印である。


 宮殿の扉。


 父の書簡。


 儀礼用の旗。


 レイラの冬用外套へ縫われた小さな刺繍。


 雪。


 白い息。


 小さな手袋。


 一度閉じ込めたはずの記憶が、形になる前の薄い輪郭だけを残して戻ってくる。


 今は追わない。


 紙を見る。


 文字を読む。


 旧リュカリオン王家は、戦争と冬害により散った旧臣民を保護する。


 旧居住地、家族構成、親族関係を記録し、希望者には就労、仮住居、食料、医薬品を与える。


 王家の名において。


 レオン・ヴァン・リュカリオン。


 俺の名前だった。


 便宜上の名前ではない。


 父から受け取った名前。


 レイラと同じ家へ生まれた名前。


 それが、俺の知らない場所で、俺より先に王子へ戻っている。


「ロド」


 カミラが呼んだ。


 低い声だった。


 止めるためではない。


 ここへ戻すため。


「今は、読む」


「ああ」


 俺はゆっくり息を吐いた。


 腹の奥には、冷たい怒りがある。


 それでも走らない。


 剣を抜かない。


 まず、守る。



 ◇



 兵舎の正面で足音が止まり、見張りらしい男の声が聞こえた。


「中を見ろ。さっきから妙に静かだ」


 カミラは老女へ近づき、ほとんど息だけで言った。


「この裏口から林へ出られる。排水路まで私が案内する。子ども、怪我人、老人から先に動く。走るな。声を出すな」


「あなたは」


「あとから行く」


 カミラは俺を見る。


「一人で残るな」


「見張りを止める」


「倒れるな」


「守る」


 扉の向こうで閂へ手が掛かった。


 俺は壁際へ立ち、左腕を体へ寄せたまま、右手だけを空ける。


 最初から殺す必要はない。


 扉が開き、古い制服を着た男が顔を覗かせた瞬間、襟を掴んで室内へ引き込み、崩れた体勢のまま顎へ右肘を入れた。


 鈍い音が響き、男は膝を折る。


 二人目はすぐに剣へ手を掛け、こちらへ踏み込んできたが、剣帯の位置も足の運びも正規兵のものではなかった。俺は鞘で手首を打ち、落ちた剣を蹴り飛ばし、足を払って石床へ倒れた男の胸元を右膝で押さえた。


「動くな」


 男は動かなかった。


 殺す必要はない。


 兵舎に残っていた男へ縄を借り、二人の手首を縛る。


「先に行け」


 カミラは、人々を裏口へ誘導している。


 子ども、老人、怪我人、母親の順に、足音を小さくして排水路へ向かう。左肩を傷めているにもかかわらず、子どもを抱く母親の荷物を受け取り、足を痛めた老人の腕を支え、狭い入口へ頭をぶつけないよう、一人ずつ声を掛けていた。


 その時、広場の方から怒鳴り声が聞こえた。


「兵舎を見ろ!」


 見張りが倒され、扉が開き、裏口から人影が動いている。


 気づかれて当然だった。


「急げ。ただし、走るな。転べば止まる。順番に行け」


 急がせる。


 だが、混乱させない。


 難しい。


 本当に。



 ──第四十二部 了


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