第四十二部 旧北路第七補給場と、俺の知らない王子の話 ② 旧石橋と、旧北路第七補給場
旧石橋は、通常の街道から外れて半刻ほど進んだ先にあった。
黒松林の間を縫うように残された細い道は長く使われておらず、落ちた枝、苔、雪解け水、土へ沈みかけた古い石が馬の脚を何度も止める。
俺たちは一度馬を降り、手綱を引きながら歩いた。
橋は小さな谷を越えるために架けられ、欄干の一部は崩れ、石の隙間から草が伸びている。それでも、人と馬が一頭ずつ渡る程度なら問題なさそうだった。
「先に行く」
カミラが言った。
「俺が先だ」
「左腕を痛めている」
「お前は左肩だ」
「私は落ちても、右手で手綱を離せる」
「俺も」
「本当に?」
「少しは信用していいと思う」
「実績が足りない」
同じ会話を何度しているのか。
ただし今回は、俺が先へ行く。
橋の中央まで進み、石が崩れていないことを確かめる。
栗毛は慎重だった。
性格に問題があると思っていたが、危険な場所では足元をよく見ている。
「意外と賢いな」
馬の首を撫でる。
「お前より?」
後ろからカミラが言った。
「比較対象として不適切だ」
「馬に失礼だな」
灰色の牝馬が橋へ足を掛ける。
カミラは右手で手綱を持ち、左肩を庇いながらゆっくり歩いている。
橋の中央へ差し掛かった時、林の奥で枝が折れた。
灰色の牝馬が驚き、半歩だけ横へずれる。
カミラの体が傾く。
俺は栗毛の手綱を離さず、右腕だけを伸ばした。
間に合った。
カミラの腰を抱く。
今度は完全に事故だった。
本当に。
細い腰、外套、革帯、その上へ回した腕。
体勢を戻そうとしたカミラの胸元が、俺の肩へ柔らかく当たる。
非常に良い。
危険な場所である。
落ちれば怪我をする。
だから、すぐに離すべきだ。
十分に理解している。
ただし、人間は理解した瞬間に必ず正しい行動を取れるわけではない。
安全確認のため。
ほんの一呼吸だけ。
状況を維持する。
「ロド」
カミラの声が、かなり低い。
「何だ」
「今、離せるな」
「確実に体勢が戻るまで待っている」
「もう戻った」
「再転倒の危険が」
「ない」
「断定は早い」
カミラは右手で手綱を持っている。
殴れない。
蹴ることも難しい。
だから、こちらの靴の上へ自分の踵をゆっくり載せ、体重を掛けた。
「痛い」
「離せ」
「分かった」
非常に惜しい。
だが、離す。
少しだけ。
本当に少しだけ遅れて。
「成長していないな」
カミラが言った。
「命を守る判断は、かなり速くなった」
「離す判断は」
「改善の余地がある」
「最低だな」
「人間には、変わらない美徳もある」
「それを美徳と呼ぶな」
橋を渡り終える。
朝の林、冷たい風、旧補給場へ向かう道、肩の傷、腕の包帯、俺の顔面に増えた損傷、ほんの少しだけ赤くなったカミラの耳。
全部が同じ道の上にある。
悪くない。
◇
旧北路第七補給場は、林の切れ目にあった。
最初に見えたのは、崩れかけた木柵である。
十年前に閉鎖された施設という話だったが、完全に捨てられているわけではない。柵の一部は新しい木材で補修され、門の前には荷車の深い轍が残っている。古い倉庫の屋根からは煙が上がり、馬小屋の横には昨夜使われたばかりらしい水桶と干し草が置かれていた。
俺たちは馬を林の奥へつなぎ、徒歩で丘の上へ回った。
補給場の中央には荷物を積み替えるための広場があり、北側には倉庫が三棟、西側には古い兵舎、南側には馬小屋、東側には林道へつながる門が残されている。林道から入った荷車は五台あり、荷台には毛布、空の椀、麦袋、人を乗せるための板張りが積まれていた。
見張りは六人ほど。
帝国兵の制服を着ている者もいる。
ただし、何かが違う。
「正規軍ではない」
俺が言うと、カミラは隣で目を細めた。
「理由は」
「立ち方が揃っていない。外套は同じでも靴が違う。剣帯の位置も違う。門へ立っている二人は、周囲を見る順番を決めていない」
「制服だけ揃えた?」
「あるいは、倉庫から出した古い装備を着せた」
黒い外套ではない。
帝国の鷲がある。
遠くから見れば正規軍に見えるため、救恤所から運ばれた人々も逆らいにくい。
「中に何人いる」
カミラが訊く。
広場、兵舎、倉庫、馬小屋、煙、荷車、人影を順番に見る。
「見える範囲で、見張りが六人。書記官らしい男が二人。兵舎の窓に人がいる。少なくとも三十人以上」
「百人ではない」
「先に移されたか、まだ運ばれていないか」
「両方の可能性がある」
カミラは補給場の西側へ目を向けた。
林の奥へ、さらに細い道が続いている。
旧北路第四宿駅。
その先。
まだ旧五国連合の領域ではない。
それでも、少しずつ西へ近づいている。
「正面から入る?」
「入らない」
カミラは地図を開いた。
「補給場には、雨水を逃がすための排水路がある。古い施設なら、完全には塞がれていない可能性がある」
「狭そうだ」
「ああ」
「二人で?」
「ああ」
「非常に合理的だ」
「顔が最低だ」
「何も言っていない」
「考えている」
◇
排水路は、補給場の南西側に残っていた。
林の斜面を下り、苔の生えた石壁を探すと、人が一人ずつ通れる程度の穴が見つかった。鉄格子は半分錆び、固定していた金具も土へ沈みかけている。
カミラは右手で格子を揺らした。
「外せる」
「俺がやる」
「左腕は」
「右手がある」
剣の柄を使い、錆びた金具へ力を掛ける。
一度では動かない。
二度、三度と押すうちに土が崩れ、金具が外れ、格子が少し傾いた。
音は小さい。
十分に通れる。
「先に入る」
カミラが言った。
「俺が」
「中で見つかった時、片腕を痛めているあんたが先では動きにくい。私が出口を確かめる」
「非常に危険だ」
「三秒以内に、もっと良い案を言え」
ない。
「分かった」
カミラが先に入る。
排水路は思っていた以上に狭く、這うほど低くはないが、腰を落とし、肩を少し斜めにしなければ進めない。
短い黒髪。
外套。
腰。
革帯。
後ろ姿。
目の前。
非常に近い。
俺は極めて真面目に排水路の状態を確かめながら進んだ。
主に。
「ロド」
前から声が飛んだ。
「何だ」
「距離が近い」
「通路が狭い」
「必要以上に近い」
「後ろから見張りが来た場合、すぐに支えられる位置を保っている」
「どこを支えるつもりだ」
難しい質問だった。
「状況に応じて」
「最低だな」
「安全確認だ」
「それを言えば許されると思うな」
許されないらしい。
残念である。
ただし、今度は本当に余計なことをしない。
この先には人がいる。
紙がある。
俺の名前がある。
冗談を言う場所と、言わない場所を間違えない。
排水路の出口は、古い兵舎の裏へつながっていた。
石蓋を少し持ち上げる。
外を見る。
人はいない。
出る。
──第四十二部 了




