第四十二部 旧北路第七補給場と、俺の知らない王子の話 ① 灰色の牝馬と、フォーゲル大尉と発つ
第三宿駅の馬小屋で最初の馬が鼻を鳴らしたのは、空の端がようやく白み始めた頃だった。
夜の冷気はまだ石畳の上へ残り、救恤所の広場には消しきれなかった焚き火の匂いと、昨日こぼれた麦粥を洗い流した水の跡が薄く残っている。大鍋の脇では昨夜から交代で働いていた人足が薪を足し、診療天幕では年配の医者が眠そうな顔で薬包を数えていた。
人が死んだ翌朝でも、子どもは熱を出し、腹を空かせた人間は食事を必要とする。兵士は見張りへ立ち、宿駅長は帳面を開き、昨日まで知らなかった誰かの名前を今日も紙へ残していく。
生活は、戦闘の都合に合わせて止まってくれない。
俺は左上腕へ巻かれた包帯を確かめながら、馬小屋の前へ並べられた二頭を見た。
一頭は灰色の毛並みを持つ落ち着いた牝馬で、鞍へ手を置いても動じず、こちらの匂いを確かめるように鼻先を少し近づけるだけだった。もう一頭は栗毛の若い馬で、耳は忙しく動き、前脚で地面を何度も掻き、俺が近づくと、こちらの額に残るこぶと焦げた眉を値踏みするように顔を向けた。
「俺は、灰色の方がいい」
俺が言うと、カミラは迷わず栗毛の手綱をこちらへ差し出した。
「こっちへ乗れ」
「なぜ」
「灰色の方が大人しい。左肩を動かしにくい私が乗る」
「俺も左腕を負傷している」
「手綱は右手で持てる」
「栗毛は、少し性格に問題がありそうだ」
「似た者同士でちょうどいい」
「俺はもっと落ち着いている」
栗毛は俺の言葉を聞いたように鼻を鳴らし、外套の端を軽く噛んだ。
「相性がいいな」
「馬を見る目に問題がある」
「乗れ」
俺は右手で鞍を掴み、左腕へ余計な力を入れないように体を持ち上げたが、その瞬間、栗毛が半歩だけ横へずれた。
落ちるほどではない。
ただし、支えは必要だった。
極めて自然に、目の前にいたカミラの腰へ右手が回る。
外套の上からでも分かる細い腰と革帯、その上へ重なる手のひらの感触。
非常に良い。
完全な事故である。
俺は一度しっかり支えを確保したあと、安全のためにもう半呼吸ほど状況を維持した。
「手」
カミラが低い声で言った。
「落馬を防いだ」
「位置が低い」
「安全性を高めるため、重心を確認している」
「もう立っている」
「再発防止のため、記憶へ定着させる必要がある」
カミラは表情を変えなかったが、右手で握っていた手綱の端が俺の額へ正確に当たった。
「痛い」
「乗れ」
「昨日の傷へ響く」
「腕ではなく頭だ」
「頭も重要だ」
「その使い方なら、多少減っても困らない」
正確だった。
俺は今度こそ栗毛の背へ乗った。
額には港町の女将から受け取った餞別のこぶ、カミラの木筒で増えたこぶ、昨日の煤と焦げた眉があり、さらに手綱の端が当たった場所まで少し熱を持っている。帝国の命令系統が揺らぎ、俺の名前が勝手に人を集め、どこかでは古い補給場へ人間が運ばれている一方で、俺の顔面も着実に損傷していた。
均衡は保たれている。
◇
フォーゲル大尉は、第三宿駅の門の前で待っていた。
昨日の騒ぎで眠る時間などほとんどなかったはずだが、鎧も外套も整えられ、腰の剣も昨夜と同じ位置へ収まっている。隣には曹長が立ち、簡素な街道図、乾燥肉、水袋、毛布、止血布を鞍へ括り付けていた。
「旧北路第七補給場までは、馬で二刻半ほどだ」
フォーゲル大尉は街道図へ指を置きながら言った。
「通常の街道から外れたあと、黒松林の間を西北西へ進む。途中で雪解け水が溜まった低地を避けろ。古い石橋は残っているが、荷車を通すほど丈夫ではない」
「人を運ぶなら、別の道がある?」
カミラが訊く。
「北側の林道だ。遠回りだが、荷車を通せる。昨夜の移送札へ書かれていた時刻を考えると、人を乗せた荷車はすでに第三宿駅を出ている可能性が高い」
「何人」
「昨日までに旧籍照合を終えた者は、百人を少し超える。ただし、全員が移送されたとは限らない」
百人という数字だけなら軽いが、その一人ずつに名前があり、家族があり、薬を必要とする子どもがいて、東側の宿駅で待っている夫もいる。
「巡察隊は」
俺が訊く。
「別の経路から向かわせた。到着は昼前になる」
「俺たちより遅い」
「ああ。命令系統を確かめながら動かす必要がある。誰でも連れていけばいい状況ではない」
フォーゲル大尉は俺の左腕へ目を向けた。
「無理をするなと言っても、行くのだろう」
「非常に理解がある」
「昨日見た」
「成長している可能性もある」
「昨日から今日までに?」
「一晩あった」
大尉は少しだけ口元を緩めた。
「旧補給場に人がいても、単独で突っ込むな。見張り、荷車、出入口、火種、逃げ道を先に見ろ。お前の剣一本で百人を守れると思うな」
「分かっている」
「本当に?」
カミラが横から言った。
「少しは信用していいと思う」
「実績が足りない」
フォーゲル大尉は俺とカミラを見比べたあと、街道図をこちらへ差し出した。
「俺は第三宿駅へ残る。救恤所を止めれば、困る人間が出る。だが、旧籍照合と移送は止める。灰鐘関所とヴァルター軍監へも、別々の伝令を出した」
「借りは返す」
カミラが言う。
「返さなくていい」
「返す」
「なら、生きて戻れ」
大尉は答えた。
帝国の制服を着た人間から、また同じ言葉を言われる。
祖国を滅ぼした国の兵士であり、父を処刑した国の兵士であり、俺を奴隷として使った国の兵士でもある。それでも、目の前の人間をどこか分からない場所へ運ばせないために残る男だった。
簡単ではない。
本当に。
「戻る」
俺は言った。
「努力ではなく?」
カミラが訊く。
「守る」
「最初から、そう言え」
◇
第三宿駅を出ると、朝の風は思っていたより冷たかった。
栗毛は最初こそ落ち着かなかったが、街道へ入ると歩調を整え、灰色の牝馬を半歩ほど先へ行かせたまま、一定の距離を保って進んだ。左腕を体へ寄せ、右手だけで手綱を持つ。普段より不自由ではあるが、歩くよりは速い。
街道の左右には、昨夜まで救恤所を目指していた人々の足跡が残っている。雪解け水を避けるために泥へ寄った足跡、子どもの小さな靴跡、荷車の深い轍、杖の先が作った丸い穴が同じ方角へ重なり、途中から二つへ分かれていた。
一方は通常の街道を西へ進み、もう一方は北側の黒松林へ入っている。
人を運んだ荷車は、林道を使ったらしい。
「追う?」
俺が訊くと、カミラは首を横へ振った。
「林道へ入れば、後ろからしか近づけない。見張りがいれば、到着前に気づかれる。私たちは旧石橋を使う」
「荷車を追わない?」
「人を運んだ荷車が、まだ補給場にいるとは限らない。先に全体を見る」
焦らない。
走らない。
怒りへ任せて、相手が用意した道を進まない。
少し前までなら、俺は轍を追ったかもしれない。自分の名前で集められた人間がいると知れば、すぐにでも取り返したくなる。
だが、フォーゲル大尉が言った。
剣一本で百人を守れると思うな。
正確だった。
少し悔しい。
かなり。
「昨日」
カミラが前を向いたまま言った。
「大尉へ本名を聞かれた時、嫌ではなかったか」
「何が」
「レオンと呼ばれることが」
馬の蹄が固い地面を順番に踏む。
少し離れた林の奥では鳥が鳴き、まだ低い朝の光が黒松の幹の間へ細い筋となって差し込んでいる。
「嫌ではない」
俺は答えた。
「名前そのものを捨てたかったわけではない。必要なら名乗った。リヴィアにも、テオにも、マリノにも話した。長い間、誰にも呼ばせなかったわけではない」
「では、何が嫌だ」
「名前だけが、勝手に歩くことだ」
答えてから、少しだけ息を吐く。
「王子だった頃、名前は便利だった。俺が何もしていなくても扉が開き、食事が出て、人が頭を下げた。父の名と国の名と王家の印が、俺より先に歩いていた」
「今と同じ?」
「似ている」
昔の俺は、その重さを分かっていなかった。
守られていた。
用意されていた。
人が頭を下げる理由も、扉が開く理由も、名前が誰かへ命令する力も、自分のものだと錯覚していた。
「国が滅びたあとで、名前は何もしてくれなかった。腹は減る。殴られる。働けと言われる。倒れても、誰も助けない。王子だと言えば、余計に面倒になるだけだった」
「それで、捨てた?」
「全部は捨てられなかった」
レイラ。
父。
宮殿。
雪。
小さな手袋。
離した手。
捨てれば軽くなるものもある。
捨てれば、自分まで消えるものもある。
「俺は王子へ戻りたいわけではない」
俺は言った。
「国を取り戻すために人を集めたいわけでもない。俺の名前で頭を下げろとも、俺の名前で戦えとも言いたくない」
「それでも、誰かは名前を使う」
「ああ」
「なら、どうする」
カミラは慰めではなく、監察官として俺が何を選ぶかを見ている。
「俺より先に歩いた名前へ追いつく」
俺は答えた。
「勝手に人を集めるなら止める。俺の知らない場所で王子を作るなら、そいつを潰す」
カミラは少しだけ横を見た。頭巾の下から覗く黒い髪が朝の風で揺れる。
「悪くない」
「褒めた?」
「少しだけだ」
「記録する」
「燃やすぞ」
「紙は燃やすな」
「頭の中の記録だ」
「非常に難しい」
カミラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
すぐに戻る。
それでも、悪くない。
──第四十二部 了




