第四部 外科医ヴェロニカと、敵兵を縫う話 ③ 〜昼と夜〜
数日が過ぎた。
ヴェラは手術台に立ち続けた。
脇腹と太腿の傷は、徐々に塞がっていった。ただし彼女の動きは、ときどき止まった。
手術中ではない。
休憩中、椅子に座った瞬間に、二、三秒だけ止まる。
止まったあと、また動き出す。
あの二、三秒で、彼女は自分の中の小さな疲労をリセットしているのだろう。完全に休む暇がないからだ。
俺は、その二、三秒の止まり方を見るのが好きになった。
好きになった、というのは、俺の中の専門技能の最新項目だった。
リューリックは補給係に配属されていた。
包帯、糸、薬草、薬瓶、酒、塩、湯。
すべての物資の補充と分配。
彼の家令的気質は、補給という仕事に信じられないほど向いていた。三日目には、補給帳簿を三冊目まで自分で書き直していた。
補給係の主任はリューリックの帳簿を見て、
「あんた、もうここに残らないか」
と本気で訊いたらしい。
リューリックは、
「家令の家系の副業の本義として、主君の旅程を優先しております」
と丁寧に断ったらしい。
俺は、それをヴェラから聞いた。
ヴェラは、ふっと笑った。
ヴェラの笑いは稀少だった。
稀少な分だけ、出てきた時には強く効いた。
「あんたの家令、変わってる」
「自覚は本人にある」
「あんたも変わってる」
「自覚はある」
「変わってる男ふたりが、なぜ一緒にいる」
「変わってる同士、たぶん相性がいい」
「それ、答えになってない」
「答えになってる」
「ふん」
ヴェラは、もう一度、ふっと笑った。
稀少な笑いを一日に二度引き出した。
俺の中の専門技能は、またひとつ項目を追加した。
◇
その夜、リューリックの天幕で、彼は低く言った。
「殿下」
「うん」
「この病院、薬と人手が足りておりません」
「だろうな」
「特に頭痛丸、止血粉、清潔な布。三日に一度、補給が来ます。だが足りていない」
「……」
「軍医長が、それを繰り返し本部に上申しているそうです」
「軍医長は」
「ステファン。五十三歳。革命戦争に若い頃から参加していた古参です」
「ヴェラとは」
「対立しています」
「派閥か」
「正確には、判断の対立です。ステファンは補給が足りない以上、味方を優先するべきだと言っている。ヴェラは患者の重症度で順番を決めるべきだと言っている」
「シンプルだな」
「シンプルです。ただし、簡単ではありません」
「軍医長は、ただの冷血漢じゃないんだな」
「はい。彼は革命戦争で妻と息子をカラドリン軍の襲撃で亡くしているそうです。妻は当時、医療兵でした」
「……」
「ステファンは医者として正しいことをしようとしています。ただ、彼の中の医者の正しさは、ヴェラとは違う」
「衝突するな」
「ええ」
「どちらに付くか、か」
「殿下は、どちらに」
「どちらにも付かない」
「畏まりました」
「だが、ヴェラの手元は見続ける」
「ご賢明な判断です」
リューリックはそう言って、補給帳簿を閉じた。
帳簿の表紙には、彼の几帳面な字で「第三号、暫定」と書かれていた。
リューリックが暫定と書いたものは、明日にはだいたい確定になる。
俺の二十八年で学んだ、リューリックの行動則のひとつだった。
◇
その夜、俺はヴェラの軟膏の塗り直しを手伝った。
手伝う、と言っても、彼女の傷の処置を横で見るだけのはずだった。
はずだった、というのは、ヴェラがこう切り出したからだ。
「あんた、手」
「うん」
「貸せ」
「何に使う」
「太腿の傷を見せる。後ろから軍服を押さえてもらわないと、自分で巻けない」
「俺が押さえるのか」
「ほかに誰がいる」
「リュドミラに頼まないのか」
「リュドミラは別の患者の脈を見ている」
「ほかの看護師は」
「寝てる。寝ないと明日がもたない」
「……俺は起きている」
「だから、あんた」
ヴェラの選択肢の消去法は、いつもの彼女らしく冷酷だった。
冷酷だが合理的だった。
俺は頷いた。
頷いたのが、いけなかった。
いけなかったというのは、頷いた瞬間に俺の中の専門技能が、また、ぐらりと起きたからだ。
ヴェラの天幕は、病院の本棟の脇に一つだけ独立して立っていた。主任外科医の特権らしい。
中は狭い。
寝台がひとつ。
机がひとつ。
薬箱がひとつ。
ろうそくが机の上で一本、揺れていた。
ヴェラは軍服の上を、肩からぐいと下ろした。
下に着ているのは白いシュミーズだった。
肩の輪郭が見えた。
細い肩だ。
ただし、その肩には長く解剖刀を握ってきた女特有の、筋の張りがわずかに走っていた。
俺の心拍が上がった。
ヴェラは、それを見て、口の端だけを上げた。
「あんた、何してる」
「押さえると言われた」
「軍服の裾を押さえろ。捲り上げると太腿が出る」
「出るな、太腿。当然」
「文句あるか」
「ない」
「では、押さえろ」
彼女は寝台の上に横向きに座った。
右の太腿の包帯を解く。
太腿の上半分が、ろうそくの光の中に現れた。
肌は白かった。
ただ白いだけではない。
ところどころに、古い傷の痕が何本もある。奴隷時代の棒か鞭の痕だろう。
俺の中の専門技能は、その瞬間、いつもの馬鹿な反応と別の何かに切り替わった。
欲情はした。
当然した。
俺は聖人ではない。むしろ聖人から一番遠い場所にいる男だ。
だが、それだけではなかった。
この女の体は、白くて、強くて、傷だらけで、まだ何かを奪い返している途中の体だった。
触れるなら、馬鹿だけでは触れられない。
そう思った。
「軟膏」
「ここか」
「もう少し内側」
「……ここ?」
「そう」
俺は、彼女の太腿の傷口の脇に軟膏を塗った。
指は、傷から一センチ離した。
離した一センチが、俺の理性の最後の境界線だった。
ヴェラは声を出さなかった。
ただ、息を少しだけ止めていた。
「あんたの手」
「うん」
「冷たいな」
「ろうそくの近くにいたから、温かいかと思った」
「冷たい」
「悪い」
「悪くない。傷にはいい」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「冷たい手が肌の上に長くいると、肌が温度を覚える」
「……何の話だ」
「肌は、一番長く触れていた温度を覚える。覚えると、その温度をまた欲しがるようになる」
「お前、薬師みたいに卑怯なことを言うな」
「卑怯ではない。生理学だ」
「絶対に違う」
「医者は卑怯ではない。観察するだけだ」
彼女は、頬の傷の側を、ろうそくの光に少し向けた。
光の中で、軟膏の油の膜が薄く光った。
「ヴェラ」
「ん?」
「俺は、いま、お前の患者か」
「半分は」
「残り半分は」
「まだ、決めてない」
「決めてない側で、お前は何をしている」
「確かめている」
「何を」
「自分が、まだ男の肌を欲しがるかどうか」
言い方が、まっすぐすぎた。
俺の喉が鳴った。
ヴェラは目を逸らさない。
「戦場では、毎日、人の中身を見る。腹の中も、骨の欠片も、血管も、腸も。長く見すぎると、全部ただの肉に見えてくる」
「……」
「だから時々、まだ生きている雄の肌に触る。触って、反応を見て、体温を確かめる。そうしないと、私の手が、医者の手ではなくなる」
「それを俺で確かめるのか」
「気に入ったから」
「……」
「逃げるなら、今だ」
ヴェラは、低く言った。
挑発ではない。
確認だった。
逃げる余地を一度だけ置いている。そこを越えたら、たぶん彼女は容赦しない。
昼の外科医が、切開線を引くように。
夜の女が、境界線を引いていた。




