第四部 外科医ヴェロニカと、敵兵を縫う話 ② 〜屋敷の傷〜
野戦病院は、思ったより大きかった。
石造りの低い小屋が五棟。長方形の、いかにも実用本位の建物だ。もとは民家の倉庫だったものを、医療施設に転用している。その周囲に、布張りの天幕が十数張。天幕と天幕の間には洗濯紐が渡され、血の染みた包帯が何枚もはためいていた。
絶え間なく傷病兵が運ばれていた。
馬車。
担架。
肩を支えられた歩兵。
ぐったりした若い兵を二人がかりで背負った担架兵。
呻き声。
走る兵士。
煙。
血の匂い。
消毒液の匂い。
火傷の、肉の焦げる匂い。
戦場の延長線。
しかも、リヴェンのセラの病院より密度が濃かった。
ここはまだ戦線のすぐ後ろなのだ。
入口で、白衣の女が走ってきた。
「ヴェラ! あんた、無事だったの!」
「無事じゃない。脇腹と太腿、刺された」
「だから無茶をするなって言ったでしょ!」
「取り残された担架隊を探しに出た。カラドリン側の斥候に見つかった」
「あなたが自分で?」
「手が足りなかった。私が行くしかなかった」
「この馬鹿外科医!」
「知ってる」
白衣の女は、リューリックの背中からヴェラを慎重に下ろした。
二十代後半。茶色の髪を後ろで束ねている。背は俺の胸くらいまで。目元の鋭さは、戦時の医療従事者特有のものだ。
名前は、あとでリュドミラと聞いた。
看護師長らしい。
「あなた達は」
「拾った」
「ヴェラを?」
「うん」
「……ありがとうございます。ヴェラ、寝なさい」
「寝られない」
「寝なさい」
「無理」
「ヴェラ」
「……分かった」
ヴェラは目を閉じた。
数十秒で、もう寝息になっていた。
リュドミラが、ふっと息を吐く。
「あの人、寝ない人なの。三日ぶりに寝てる」
「三日?」
「眠らないと手術ができない、ということだけは分かってる人だから、必要なときは十分だけ目を閉じる。でも深く眠るのは、たぶん三日ぶり」
「主任外科医が、自分で担架隊を探しに出るのか」
「他に行ける外科医がいない」
「……他の医者は」
「軍医長は内科系。切らない人。外科はヴェラだけ」
「それで病院が回るのか」
「回ってないわよ」
リュドミラは、それだけ言うと、ヴェラの上に毛布をもう一枚かけた。
その手の動きは、家族のそれだった。
付き合いの長い同僚というより、姉妹に近い距離感の手だった。
◇
その夜、ヴェラが目を覚ました。
深く眠ったらしく、目はすっかり覚めていた。
寝台から、こちらを見る。
「あんたら、まだいるのか」
「いる」
「給金、出せない」
「だろうな」
「だから、こっちで代わりを出す」
「代わり?」
「食事、寝床」
「それと?」
「あんたの膝」
「見たか」
「ずっと見てた。気絶寸前でも分かる」
「……怖い医者だな」
「褒め言葉だ」
ヴェラは、まだ寝台に横になったまま淡々と言った。
「あと、リューリックの剣の鞘」
「私のですか」
「傷んでる。うちの鍛冶屋に直させる。あの鍛冶屋、私に手術代を借りてる」
「補修費は」
「タダ」
「……」
「もうひとつ。北のカステリオへ行くなら、補給路の地図を写させる。山賊が出る道と安全な道がある。うちの補給係が知ってる」
「釣り合うどころじゃないな」
「だから働いてもらう」
「何を」
「患者を運ぶ。傷を洗う。糸を渡す。死体を数える」
「最後だけ急に重いな」
「軽く数えると、死体に怒られる」
ヴェラは、また目を閉じた。
契約の言葉に迷いがなかった。
彼女の言葉数は、こちらの想定の半分以下だった。半分以下の言葉数で、必要な情報の全部を伝えてくる。戦場で毎日、命の優先順位を決めてきた女の話し方だった。
言葉を惜しむのは、無口だからではない。
惜しんだ言葉の分を、別の行動に回すためだ。
俺は、その予算配分に敬意を覚えた。
覚えた瞬間、いつもの専門技能が、また、ぐらりと起きた。
──また、惚れる。
今回は、いつもとは違う種類の惚れ方だった。
触れたい、ではない。
見ていたい、でもない。
この女が、どこまで切って、どこまで縫って、どこで壊れるのか、見届けたい。
そう思った。
その欲は、かなり危険だった。
◇
最初の数日は、戦場の生々しさで頭が麻痺した。
朝、運ばれてくる傷病兵。
昼、手術台で切られる傷病兵。
夕方、寝台で死ぬ傷病兵。
夜、新しく運ばれる傷病兵。
その繰り返し。
ここでは、人の命の単位は時間ではなく患者の数で計られていた。今日、何人運ばれて、何人助かって、何人死んだか。それだけが、一日の長さの本当の物差しだった。
ヴェラは二日目には、もう手術台に立っていた。
立っているというより、手術台に両手でしがみついていた。
脇腹と太腿の傷は、まだ塞がっていない。
だが、彼女は自分で傷の上に軟膏を塗り、包帯を巻き直し、白衣を上から着た。
それでも、指だけは震えなかった。
「ヴェラ、無理だろ」
「私が立たないと、誰が立つ」
「他の外科医は」
「いない」
「本当にいないのか」
「本当にいない」
「終わってるな、この病院」
「知ってる。だから私が終わらせない」
ヴェラは手術台に立った。
患者は頭部外傷だった。
彼女は頭皮を切り、骨片を取り、出血を止め、縫合した。
一時間後、患者は寝台で息をしていた。
ヴェラは手術台の脇で汗を拭いた。汗はこめかみから、頬の古傷の上をゆっくり降りていった。傷の上で、汗がわずかに滲む。
それから、次の患者を待った。
俺の役は、ヴェラの助手だった。
「あんた、外科は」
「無理」
「だろうな」
「俺の役は」
「糸を渡せ。血を拭け。器具を洗え」
「了解」
「あと、患者がぐったりしたら声を出せ」
「了解」
次の手術中、ヴェラが手だけを出した。
「糸」
俺は糸を渡した。
「違う。太い。腸を縫う気か」
「すまん」
「見分けがつくようになれ」
「努力する」
「努力は明日でいい。今は間違えるな」
彼女は、ふっとため息をついた。
俺は、マレーナの薬草の八の字を思い出した。
俺は相変わらず、女性医療者の教育対象だった。
二十八歳の教育対象だった。
これまで出会ってきた彼女たちは年齢に関係なく、俺を教育しに来る。
そして俺は、教育する女に毎回惚れる。
賢くなっているはずだった。
はずだった、というのは、賢くなった実感が二十八年間ほとんどない、ということだ。
◇
手術台で、俺はヴェラの手元を見ていた。
速かった。
無駄がなかった。
切る。
引く。
縫う。
結ぶ。
四つの動作が、流れるように続く。
迷う瞬間がない。
彼女の手は、人の体の中で迷っていなかった。人の体の中のどこに何があるかが、彼女の頭の中では立体的に見えているらしかった。
「ヴェラ」
「うん」
「あんた、手術をどこで覚えた」
「屋敷」
「屋敷?」
「私は十三歳のとき、帝国貴族の屋敷に売られた」
糸が結ばれた。
「最初は給仕。十五歳から医療補助に回された」
「……」
「主人は奴隷をよく殴った。だから奴隷がよく傷を負った。その傷を医者が縫う。私は、ずっと見ていた」
「それで覚えたのか」
「覚えた。革命のあと、自分で本も読んだ」
「すげえな」
「いや」
ヴェラは、糸をもう一度結んだ。
「見続けるしかなかっただけ」
それから、低く言った。
「次の患者」
彼女は、過去のことを淡々と語った。
淡々と語ることが、語る者にとっての最後の防御だということを、俺は知っていた。
淡々と話さないと、過去は今の体の中でまた起きてしまう。
いま起きないように、過去を遠くへ置いておく。
そのための淡々だった。
俺は、それ以上訊かなかった。
訊かなかったが、見続けていた。
◇
夜、寝台に座って軟膏を頬に塗っていた彼女に、俺は低く訊いた。
「その傷」
「ん」
「触れちゃ悪いか」
「いい」
「いつ」
「十七のとき」
「主人?」
「うん」
「なぜ」
「手術中に手元が狂ったらしい」
「……あんたの手元が?」
「いや、主人の」
ヴェラは、軟膏を塗りながら淡々と言った。
「主人は、手元が狂う医者が嫌いだった。だから自分の手元が狂ったとき、その怒りを私に振った」
「……」
「ナイフを頬に当てた。深く引いた」
彼女は軟膏の蓋を閉じた。
油の膜が、頬の傷の上でろうそくの光を少し反射した。
「主人は、革命のとき死んだ」
「誰が」
「奴隷のひとり」
「あんたは」
「ナイフは持っていた。ただ、手は動かなかった」
ヴェラは、それ以上言わなかった。
言わないことが、たぶん答えだった。
「これ以上は言わない」
「言わなくていい」
「ありがとう」
ありがとう、と彼女が言ったのは、たぶん初めてだった。
短い言葉だった。
短いから、よけいに効いた。
俺は、それ以上何も言わなかった。
ヴェラの頬の傷は、ろうそくの光の中でわずかに光り、すぐに暗がりへ戻った。




