第四部 外科医ヴェロニカと、敵兵を縫う話 ① 〜倒れていた女〜
医者の手には、二つの役目がある。
傷を塞ぐこと。
そして、傷を開くこと。
切開というやつだ。
塞ぐ手と開く手は、まるで反対の動きに見える。だが、根は同じだ。人の体の境界線を、外から内へ、内から外へ、ためらわずに越える手である。
境界線を曖昧にしか引けない医者は、たいてい患者を死なせる。
切るべきところを切る。残すべきところを残す。捨てるべきものを捨て、生きる側へ手を伸ばす。
その境界線を、怖いほどまっすぐに引ける女がいた。
イタリカ共産国、南部国境野戦病院。
外科医ヴェロニカ。
白衣を着た彼女は、昼には人の腹を開いた。死にかけた兵士の中に手を入れ、血管を縛り、腸を戻し、縫った。
夜には、別のものを開いた。
自分の中に溜まった戦場の澱を、男の体温で逃がす。生きている雄の肌に触れ、反応を確かめ、まだ世界が肉と血だけでできているわけではないと、自分の体に思い出させる。
彼女は、それを恥じていなかった。
むしろ、選んでいた。
昼は外科医。
夜は女。
どちらも本物で、どちらも危険だった。
俺は、その両方を見た。
たぶん、これから一生、忘れない。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ただの傭兵。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、惚れた相手から痛い目を見ること。
今回は、痛い目を見る前に、食われかけた。
いや、正確に言えば、食われた。
ただし、生きて戻った。
だから、たぶん、これは救いの話でもある。
◇
シュタールベルクを発って、一週間が過ぎていた。
マレーナの薬局の戸を、振り返らずに出てから七日。
懐の薬草袋からは、いまだに乾いた苦みの匂いが立つ。包帯の奥で、脇腹の傷が、ときどき雨を予感する。それ以外は、街道に出ていつもの生活に戻った。
はずだった。
はず、と言いたいだけだと、自分でも分かっていた。
俺たちは、王国東部からカラドリン山岳王国へ抜ける旧街道を北東へ向かった。
カラドリン山岳王国は、思ったより住みやすい国だった。山道そのものは険しい。岩ばかりで、馬の蹄が時々滑る。だが、要所要所にドワーフの集落がある。低い石造りの屋根、煙突から立ち昇る薪の煙。集落の中央には、たいてい共同の鍛冶場があった。
鎚を打つ音が、山の冷えた空気に、よく通る。
ドワーフたちは寡黙だった。
寡黙ではあったが、客に対しては礼儀正しかった。
俺たちが銅貨を出すと、彼らは温めたエールと塩漬けの肉と、土間の隅の藁敷きを貸してくれた。エールは地下水で冷やしたあと、一度沸かす独特の作り方で、苦みが深い。塩漬けの肉は脂が硬かったが、噛むほどに甘くなった。
ある集落で、宿の主にリューリックがこう切り出した。
「シュタールベルクのマレーナ薬師の世話になりました」
主は、まばらな白髭の中で口の端をふっと上げた。
「マレーナ。オットーの娘か」
「父御を、ご存じで」
「年に三回、薬種を仕入れにこの集落を通る。元気にしておるか」
「元気でした」
「そうか」
それだけ言って、主はエールをもう一杯出した。
追加分の銅貨は受け取らなかった。
俺は、それを横で見ていた。
ドワーフ社会は狭い。噂は山道をゆっくりと、しかし確実に伝わっていく。
マレーナの父親オットー、という名前を、俺はその夜、初めて知った。彼女は自分の父のことを、ひと言も口にしなかった。口にしなかったということは、口にしないことに、彼女の中で意味があったということだ。
俺は、その意味をここでも見ないことにした。
見ないことにしたものばかりが、懐の中で軽く鳴っている。
ニーナの最後の鎮痛剤。
マレーナの薬草袋。
青銅の札が、三枚。
全部、振り返らずに出てきた町の名残だった。
「殿下、足をお休めください」
「分かってる」
「分かっておられて、ご休憩を拒否なさるのも、いつものことでございますな」
「俺の人生、座るとすぐ寝る」
「寝てよろしいかと」
「寝たら起きにくくなる」
「殿下のお体は、いま起きにくい体になっておられます」
「うるさい」
「家令の家系の副業の本義として、起きにくい主君のお肩を叩く項目もございます」
「肩叩きまで本義に入ったのか」
「肩叩きは、本義の中でも初歩でございます」
「初歩で済むのか、お前の本義は」
「初歩は、もはやございません」
俺は、ふっと笑った。
笑うと、脇腹が痛んだ。
マレーナの最後の包帯が、まだ巻かれたままだった。
◇
四日目、山の岩を踏み外して右膝を軽く捻った。
歩けないほどではなかった。だが、平地よりずっと痛む。肩や脇腹の刺し傷とは違う。関節の奥で、骨の噛み合わせがわずかにずれているような痛みだった。
「殿下、膝が」
「分かってる」
「マレーナさんの薬草袋をお使いになりますか」
「もう少し進んでから」
「出し惜しみでございますな」
「うるさい。俺の人生は平地に嫌われてるんだろ」
「殿下のお選びになった旅でございます」
「もっと優しい家臣はいないのか」
「殿下の周囲には、優しい女性が多数おられます」
「今いないだろ」
「だから私で我慢してください」
「最悪の代替品だな」
「最高の家臣でございます」
リューリックは、それでも俺の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。
歩きながら、街道脇に咲き始めた小さな黄色い花の名前を、ぽつりぽつりと教えてくれた。
覚えても、忘れる名前だった。
ただ、覚えようとしている時間だけは、膝の痛みを少し薄めた。
こいつはそれを知っている。
俺が痛む日ほど、リューリックはよく喋る。
よく喋るふりをして、ずっと見守っている。
◇
六日目、カラドリン北端の峠を越えた。
そこから先は、イタリカ共産国の南国境だった。
峠の上から見下ろすと、緩やかな丘陵地帯と、その向こうに低い山並みが続いている。山裾には鉱山らしき切り立った崖が点々と見えた。風は、もう山の冷たい風ではなかった。
乾いた土と、鉄の匂い。
それから、もうひとつ。
血と消毒液の匂い。
「殿下」
「分かってる」
「戦場ですな」
「だな」
戦場の匂いは、嗅いだ者にしか分からない。死体の匂いとも、火の匂いとも違う。生きている人間が大量に集まり、それぞれの体液を空気の中に滲ませている、その密度の匂いだ。
俺は、その匂いを肺で覚えていた。
覚えたくはなかったが、覚えている。
覚えているうちは、たぶん生きている。
そして、その日の夕方、山道の脇の岩陰に、女が倒れていた。
◇
最初は岩の影だと思った。
近づいて、初めて人間だと分かった。
軍服姿だった。
濃い緑の生地に金の徽章。イタリカ共産国軍。胸の徽章の脇に、太い赤い線が一本走っている。医療部の徽章だ。
短く切った黒髪。
肩にも届かない。ほとんど男のような切り方だった。ただ、その短さが頬の輪郭の細さを際立たせていた。
顔色は土気色だった。
唇に、わずかな紫が混じる。低体温と出血の徴候。
脇腹に浅めの刺し傷。
太腿に、もうひとつ深い出血。
すでに自分で止血しようとした跡があった。軍服の裾を裂き、傷口に巻きつけている。雑だが、急所を心得た止血だった。だが巻いた布は赤く滲み、岩の上に点々と血を垂らしている。
出血量が多すぎた。
俺はしゃがみ、彼女の額に触れた。
冷たい。
俺が近づいた気配を、彼女は感じたらしかった。
目を、ほんの少しだけ開ける。
虹彩は深い茶色だった。黒に近いが、よく見ると底のほうに赤茶色が混じっている。
彼女の目は、俺の顔を二秒だけ見た。
それから視線がずれた。
俺の左肩の包帯、右の二の腕の包帯、脇腹の包帯を順に追う。
二秒の観察。
その二秒で、彼女は俺が傷だらけだということと、傷の縫合が一定の腕で行われていることと、たぶん俺が縫う側ではなく縫われる側だということまで見抜いた。
そして、口だけが動いた。
「縫える?」
挨拶ではなかった。
命令だった。
「縫われる側なら、慣れてる」
「役立たず」
「初対面の評価が早いな」
「そっち。男」
視線がリューリックに移った。
「私が致します」
リューリックが即座に跪いた。
革袋から手術糸と針と、消毒用の蒸留酒を取り出す。手の動きが迷わない。
家令の家系の副業の本義は、剣と弓と狩りだけではないらしい。屋敷の家政には、屋敷内の傷の処置も含まれる。戦時の傭兵随伴なら、なおさら含まれる。
「ヴェロニカ」
彼女は自分から名乗った。
「長い。ヴェラでいい」
「ヴェラ、傷を見せろ」
「軍服、切れ」
俺は革小刀で軍服を慎重に切った。
生地は思ったより厚い。中綿ではなく、布そのものが緻密に織り込まれている軍用生地だった。繊維をひと筋ずつ裂くように切る。
断面から、白いシュミーズが現れた。
血で、半分が赤い。
ヴェラは声を出さなかった。
ただ、歯を軽く噛んでいた。
脇腹の傷は浅い。
だが、太腿の傷は深かった。
動脈までは届いていない。ただし太い静脈をわずかに掠めている。止血しないと、夜までもたない。
「リューリック、太腿だ」
「左様で」
「動脈は外れている」
「ええ。掠めたのは、おそらく大伏在静脈です」
「俺の知らない名前を出すな」
「家令の家系の副業の本義として、名称は必要でございます」
「患者の前で自慢するな」
「自慢ではございません。診断でございます」
ヴェラは、リューリックの手元を薄く開けた目で追っていた。
縫い始めて、二針目。
「縫い方、悪くない」
低く呟いた。
「左様で」
「あんた、外科の心得が」
「家令の家系ですから」
「家令とはなんだ」
「貴族の屋敷の家政を束ねる職です」
「屋敷の家政が、なぜ外科を縫う」
「屋敷では、たまに人が斬られます」
「……貴族の屋敷とは、面倒な場所だな」
「ええ。主君が特に面倒でございました」
「おい」
ヴェラは、痛みに顔を歪めながらも、ほんのわずかに口角を動かした。
笑ったのかもしれない。
笑ったなら、それが最初の一回だった。
応急処置が終わると、彼女はほんの一拍だけ目を閉じた。
それから、低く言った。
「私を運べ」
「どこへ」
「丘陵の向こうに野戦病院がある。私の病院だ」
「あんた、医者か」
「主任外科医」
俺はリューリックと顔を見合わせた。
主任外科医が、自ら戦場で倒れている。
それは、たいてい、その病院の状況がよくないということだった。
「リューリック、お前が背負ってくれ」
「はい。ですが、なぜ私が」
「俺の膝が痛い」
「あの時ひねった膝ですか」
「ああ」
「畏まりました」
「変な男たちだな」
「自覚はある」
リューリックがヴェラを背負った。
軽かった。
外科医の体は、思ったより軽いらしい。
立ったまま手術を続け、人の血と痛みを受け止め続けると、人の体はこんなふうに軽くなるのかもしれない。
軽くなった体を、彼女はずっと自分で運んでいたのだ。
「俺は、後ろをゆっくり行く」
「左様で」
俺たちは丘陵を下りた。




