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第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ⑦ 〜私のほうに残る〜

 別れは、三日後だった。


 俺の脇腹の傷は、まだ痛んだ。


 深く吸うと、内側が引きつれる。


 マレーナは、最後の包帯を巻いた。


 彼女の手は、いつもの最短の手だった。


 無駄がなく、正確で、優しい。


 優しいのに、もう、昨夜のような熱は見せなかった。


 俺も、それを求めなかった。


 求めたら、たぶん、どちらかが壊れる。


「三日は、馬を速く走らせないでください」


「分かった」


「お酒は」


「分かった」


「分かっていませんね」


「分かってる」


「では、言い直します。飲んだら死にます」


「分かった」


「今度は分かりましたね」


「かなり分かった」


 マレーナは、少しだけ笑った。


 その笑いは、薬師の笑いではなかった。


 女の笑いでもなかった。


 五年分の喪失と、数日の熱と、ひとつの夜と、死んだ義弟と、まだ残る町の患者たちを全部抱えた人間の笑いだった。


 俺は、その笑いを見て、胸の奥の引き出しがまたひとつ開いた音を聞いた。


「ご傭兵さん」


「うん」


「これを」


 マレーナは、小さな布袋を差し出した。


 中には、乾燥させた薬草が入っていた。


 薄い苦みと、甘さの混じった匂い。


「熱が上がった時に煎じてください。苦いです」


「苦い薬ばかりだな」


「効く薬は、たいてい苦いものです」


「お前は」


「はい」


「苦くはなかった」


 言ってから、しまったと思った。


 マレーナは、少しだけ目を伏せた。


 それから、低く笑った。


「ご傭兵さんは、最後の最後で、とても悪いことをおっしゃいますね」


「悪い。熱のせいだ」


「もう下がっています」


「じゃあ、惚れの熱だ」


「それは、薬では下げられません」


「知ってる」


 マレーナは、布袋を俺の手に押し込んだ。


「なら、そのままお持ちください」


「消えない熱を?」


「ええ」


「重いな」


「ご傭兵さんは、重いものを持つのがお上手でしょう」


「最近、懐が重すぎる」


「では、革袋を新しくしてください」


 そう言って、マレーナは初めて、少しだけ、子供のように笑った。


 それはたぶん、夫にも、子にも、俺にも、本当は見せないつもりだった顔だ。


 俺は、黙ってその顔を覚えた。


 覚えたものは、もう忘れられない。



 ◇



 薬局の外で、リューリックが馬を引いて待っていた。


「殿下」


「うん」


「お顔が、非常に、どうしようもないことになっております」


「具体的に言うな」


「惚れた男の顔です」


「具体的に言うなと言った」


「では、抽象的に。ご出立前から、もう戻りたそうなお顔です」


「もっと悪いわ」


 俺は馬に乗った。


 腹が痛んだ。


 痛みがあると、生きていることを思い出す。


 今回は、痛みだけではなかった。


 背中に、手の温度が残っている。


 胸元に、唇の記憶が残っている。


 脇腹に、刃物の痛みが残っている。


 懐に、三枚の青銅札と、ニーナの鎮痛剤の最後の残りと、マレーナの薬草袋が入っている。


 重い。


 俺は、どんどん重くなっている。


「リューリック」


「はい」


「新しい革袋が要るな」


「畏まりました。次の町で、殿下の恋慕と厄介ごとを収めるための大型のものを探しましょう」


「恋慕と厄介ごとを一緒に入れるな」


「分別なさいますか」


「できないから困ってる」


「左様で」


 リューリックは、少しだけ笑った。


 俺は、振り返らなかった。


 振り返ったら、マレーナが窓辺にいるかもしれない。


 いないかもしれない。


 どちらにしても、振り返ったら、たぶん足が止まる。


 足が止まると、また別の熱が出る。


 だから、振り返らなかった。


 シュタールベルクの煙突から、白い煙が上がっていた。


 鉄の匂い。薬草の匂い。温泉の湯気の匂い。


 町の匂いが、背中にしばらくまとわりついた。


 馬は、ゆっくり南へ進んだ。


 次の町は、まだ見えなかった。



 ◇



 ──Another Side──



 夜更けに、マレーナは薬局の二階へ上がった。


 ご傭兵さんが寝ていた部屋の、寝台のシーツを剥がす。


 血の染みた布を、洗い場の桶に運ぶ。


 桶の中で、布がゆっくり血を滲ませて、ほどけていく。


 その様子を、彼女はしばらく見ていた。


 血は、お湯の中で薄く広がる。


 広がった血は薄まり、やがて、ただの薄紅色の湯になる。


 彼女は、それを五年間、何度も見てきた。


 亡くなった夫の血。


 子供の枕の汗。


 何人かの戦傷者の包帯。


 それから、彼の脇腹の血。


 ご傭兵さん。


 彼女は、心の中でだけ、そう呼んだ。


 レオン、とは呼ばなかった。


 呼んでしまうと、声が残る。


 声が残ると、夜が長くなる。


 マレーナは、石鹸を少しだけ溶かし、布を揉んだ。


 血が、指の間から抜けていく。


 血は抜ける。


 匂いも、薄くなる。


 けれど、体温の記憶は、抜けない。


 彼の背中の熱。


 胸の硬さ。


 傷を避けて触れた肌。


 熱に浮かされた呼吸。


 無理をするな、と、二度も言った声。


 五年、していなかった。


 人に触れることを。


 人から求められることを。


 自分から、誰かの肌を求めることを。


 薬師の手は、毎日、人に触れる。


 脈を取り、傷を洗い、膿を出し、熱を測る。


 それなのに、彼女の手は五年、ずっと空いていた。


 昨夜、その空いた場所に、男の熱が入った。


 たった一晩で、空き家に火が入ったみたいだった。


 彼女は桶の縁に手を置いた。


 指先が、少し震えていた。


 震えを止めるために、布を強く揉んだ。


 夫のことを忘れたわけではない。


 子供のことを忘れたわけでもない。


 ただ、忘れていないまま、別の熱を欲しがった。


 それが、少しだけ怖かった。


 そして、少しだけ、嬉しかった。


 嬉しかったことが、いちばん怖かった。



 ◇



 洗い終えた布を干すため、マレーナは三階へ上がった。


 薬草を干すための細い梁が、いくつも渡してある。


 その一本に、血の抜けたシーツを掛けた。


 夜風が入ってきた。


 シュタールベルクの夜風は、鉄の匂いがする。


 その鉄の匂いの奥に、ほんの少しだけ、温泉の湿り気が混じっていた。


 彼女は、棚の上から小さな帳面を取り出した。


 薬の記録帳ではない。


 亡くなった夫の病状、子供の熱、そして、この五年で世話をした患者たちの、書かなくてもよかった記録が、そこには残っている。


 マレーナは、筆を取った。


 名前は書かなかった。


 ただ、一行だけ書いた。


 ──持ち熱。五日目、下がらず。


 そこまで書いて、筆が止まった。


 違う、と彼女は思った。


 彼の熱は、下がった。


 けれど、彼が残した熱は、下がっていない。


 マレーナは、もう一行、書き足した。


 ──私のほうに、残る。


 帳面を閉じた。


 遠くで、夜明け前の製鉄炉が、低く唸った。


 町は、明日も動く。


 難民は、明日も来る。


 薬草は、明日も煎じる。


 警備隊は、明日も誰かの名前を記録する。


 マレーナは、また薬師の顔に戻る。


 それでいい。


 ただ、戻る前に、彼女は一度だけ、自分の手のひらを見た。


 昨夜、男の肌を知った手。


 今夜、血を洗った手。


 明日、誰かの熱を測る手。


 その手を、ゆっくり胸に当てた。


 そこにはまだ、消えない熱があった。


 マレーナは、低く笑った。


 誰にも聞こえないように。


 そして、夜明けの薬草を煎じるため、階段を降りた。



 ──第三部 了


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