第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ⑥ 〜謝罪は薬にならない〜
その夜は、月が薄かった。
俺は、寝台の上に毛布をぐしゃっと丸めて、人の形に置いた。
俺自身は、寝台の脇の暗がりに身を伏せた。
左肩に、マレーナの軟膏を薄く塗っておいた。
ニーナがくれた鎮痛剤の小瓶を、最後の一本の半分だけ飲んだ。
効きは、たぶん四時間。
四時間あれば、足りる。
足りなければ、いつものようなことになる。
戸が軋んだ。
俺は息を止めた。
影が二つ、部屋に滑り込んできた。
寝台の上の毛布の山に、影のひとつが刃物を振り下ろした。
刃の音が、布を深く刺した。
毛布の山は、声を出さなかった。
「いない」
影のひとつが、低く言った。
その瞬間、戸の方から、もうひとつの影が低く突っ込んできた。
リューリックだった。
彼の剣が、ひとりの影の喉を横から切断した。
声を上げる暇もなかった。
俺は、暗がりから立ち上がった。
左肩の縫合糸が、ぴりっと引きつった。
無視した。
もうひとつの影が、俺の方に刃物を振り上げた。
俺は、寝台の脇の火かき棒を握って振った。
空振った。
影の刃物が、俺の脇腹に深く刺さった。
──やべえ。
今回は、深い。
俺は、刃物の握り手の手首を、火かき棒で思い切り叩いた。
手首の骨が折れる感触が伝わった。
影の男は、刃物を放した。
刃物は、俺の脇腹に刺さったままだった。
俺は、火かき棒でもう一度、影の男の側頭部を殴った。
男は崩れた。
その瞬間、リューリックが、もう一人の影を片付け終えて、俺の方に駆けてきた。
「殿下!」
「……刺さった」
「お抜きしますか」
「抜くと、出血が止まらない」
「お抜きしません。このまま固定します」
「……うん」
「お動きにならないでください」
俺は、寝台の縁に、ずるずるともたれかかった。
脇腹から、ぬるい血が、肩の傷とは別のリズムで流れた。
肩の傷の熱と、脇腹の刺傷の熱と、湯あみの夜の熱の記憶が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざった。
戸の向こうに、足音が駆け込んできた。
マレーナだった。
彼女は、俺の脇腹に刺さった刃物を一目見て、低く言った。
「動かないで」
業務の声だった。
業務の声で、彼女は刃物を慎重に抜かず、布で覆い、出血を押さえた。
その手の動きが、最短だった。
最短の手は、たぶん、今夜いちばん優しい手だった。
◇
二日後の朝。
俺は、寝台の上で目を覚ました。
脇腹の傷は深かった。
マレーナが縫合した。
縫合のあとの傷を、彼女は夜通し見守った。
夜中、何度か、熱が上がり下がりした。
彼女は湿布を貼り直した。
彼女の手の冷たさは戻っていた。
戻った冷たさは、もう業務の冷たさだった。
業務の冷たさは、湯あみの夜の前の、彼女の手だった。
戻り方が、たぶん、彼女の選択だった。
その選択を、俺は責めなかった。
責められる立場ではなかった。
寝台の脇に、リューリックが座っていた。
「殿下」
「……」
「お言い分は、いかが」
「……まだ、まとまっていない」
「では、私から申し上げます。マレーナさんの義弟さんは、お亡くなりになりました」
俺は、目を閉じた。
「いつ」
「今朝、ご遺体が町の外れの放棄された廃坑から見つかりました。半月前に殺されていたようです」
「……」
「マレーナさんも、ご存知です」
「……どんな顔をしている」
「いつもの顔です」
「……」
「ただし、その『いつもの顔』を保つのに、たぶん、もう相当の力が要っているお顔です」
俺は、目を開けた。
天井の梁を見上げた。
いつもの古い木目だった。
戦時の町の梁は、たぶん、どこも似たような顔をしている。
そして、その梁の下で、誰かが、いつも、誰かの「いつもの顔」を保つために、内側で削れている。
「リューリック」
「はい」
「俺は、彼女を連れていけないな」
「はい」
「彼女も、来ないな」
「はい」
「じゃあ、せめて、この町に戻せ」
「畏まりました」
◇
密輸団の二人の懐から、青銅の札が出た。
円の中に、目が一つ。
リヴェンの野戦病院で見たもの。
リンデン村で見たもの。
同じ印だった。
「三枚目か」
「三枚目でございます」
「偶然で押し通せるか」
「殿下の希望的算定でも、そろそろ無理がございます」
「だよな」
俺は、三枚目の札を懐に入れた。
懐の中で、三枚の青銅が、かすかに触れ合った。
軽い音だった。
軽いのに、腹の底に残る音だった。
◇
その日の昼、リューリックは町の警備隊長に密輸団の証拠を渡した。
証拠は、十分だった。
襲撃犯二人。暗号紙。難民の移送先を示す地図。マレーナに薬を無償提供させるための脅迫文。若い坑夫たちの名前。
マレーナの義弟の遺体が見つかった廃坑からも、数人分の骨と、古い布切れが出た。
町は、ようやく騒ぎ出した。
騒ぎ出すのは、たいてい、手遅れになってからだ。
警備隊長は、マレーナの前で帽子を取った。
「マレーナ薬師。申し訳ない」
マレーナは、頭を下げなかった。
泣きもしなかった。
ただ、静かに言った。
「謝罪は、薬にはなりません」
警備隊長は何も言えなかった。
「ですが、記録にはしてください。消えた難民の名前を。分かる限り、すべて」
「……分かった」
「名前が分からない方は、年齢と、性別と、見つかった場所を」
「……分かった」
「薬師として、私は、死んだ方の熱は下げられません。せめて、名前だけは冷まさずに残してください」
その声は、いつもの低い声だった。
だが、俺には分かった。
彼女の中のどこかで、何かが、ひび割れている。
ひび割れた音は、外には出ない。
外に出ない音ほど、長く残る。




