第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ⑤ 〜邪魔な人間〜
昼前、リューリックが薬局に来た。
彼の顔が、いつもより、わずかに硬かった。
いつもより、というのは、リューリック基準では、ほとんどの人には見えない違いだ。
俺には、十年来の付き合いで見えた。
「殿下、お時間、よろしいですか」
「ああ。マレーナは奥で薬を煎じている」
「では、手短に」
リューリックは、寝台の脇に椅子を引いた。
声を低く絞った。
「殿下。この町、危のうございます」
「分かってる」
「いえ、思っていたより危のうございます」
リューリックは、町で集めた情報を淡々と述べた。
ひとつ。
冬の終わりから町に流れ込んでいる「商人ではない商人」たちは、東の街道筋で難民を狙う密輸団の一派だった。彼らは難民を、王都の労働市場と、南の沼地の労役場へ流していた。
ふたつ。
その密輸団は、町の若い坑夫を何人か、すでに買収していた。坑夫たちは、町の中の「使える人間」と「邪魔な人間」を、密輸団に教えていた。
みっつ。
そして、マレーナ・ベルケは、その「邪魔な人間」のリストに入っていた。
「邪魔な人間」
「町の中で、難民の体調を把握している唯一の人物が、マレーナさんです」
「……」
「彼女が、誰がどこの出身で、どこへ向かおうとしているかを、いちばん知っている。難民を狩る側にとっては、彼女の口を塞いでおく必要がある、という判断でしょう」
「で、彼女は、塞がれかけているのか」
「もう、噛まれかけております」
「噛みつかれたところは」
「彼女の、亡くなったご主人の弟が、密輸団に捕らわれています。半月前から」
「……」
「弟さんを生かしておきたければ、町の難民の動向を密輸団に流せ。流さなければ、弟も、お前も、消す。──と、脅されているようです」
「彼女は、流したのか」
「半分は、流したように装っております。ただし、流した情報の半分は嘘です」
「……」
「マレーナさんは、半分の嘘を、これまで保ち続けてきました。だが、もう長くは持ちません」
俺は、目を閉じた。
ろうそくの光がない、明るい昼の光の中で目を閉じても、昨夜の記憶が、瞼の裏で揺れた。
「リューリック」
「はい」
「俺の入れ知恵を、彼女に求めれば、彼女は、たぶん頷く」
「ええ。頷かれます」
「だが、頷いたら、彼女は、もう町に戻れない」
「ええ」
「俺は、彼女を町に戻したいのか、町から連れ出したいのか」
「……それは、殿下が、お決めになることです」
「決められるなら苦労しない」
「決められない時点で、もう深入りしておられます」
俺は返事をしなかった。
リューリックは淡々と続けた。
「ただし、殿下。我々の旅は、亡国の王族の隠れ歩きでございます。連れて歩ける人数には限りがございます」
「分かってる」
「分かっておられても、心は計算より、いつも半歩先に走ります」
「お前、年々、口が悪くなるな」
「必要な時には、深く申し上げます」
俺は窓の外を見た。
北の山並みは、変わらず薄く白かった。
マレーナはこの町にいる。
この町で、薬を煎じ、熱を見て、夫と子の部屋を誰かに貸して、毎日いつもの顔に戻っている。
その顔が、今、誰かに踏みつけられかけている。
俺はそれが嫌だった。
惚れたからか。
触れたからか。
それとも、彼女が俺の背中から嘘を読んだ女だからか。
たぶん、全部だ。
全部なら、もう計算は簡単だった。
「リューリック」
「はい」
「今夜、やる」
「畏まりました」
◇
その日の夕方。
マレーナの薬局の戸が、軽く叩かれた。
いつもの患者のノックではなかった。
ノックの間隔が、計算されていた。
計算されたノックは、たいてい合図だ。
合図のノックを、平和な薬局には、誰もしない。
マレーナが、戸を開けに行った。
俺は、二階の階段の上から、息を潜めて聞いていた。
「マレーナ・ベルケ、お久しぶり」
男の声がした。
商人を装った、商人ではない声。
ニーナの村に来た男と、声の質が似ていた。
同じ組織の、別の駒だと、俺はすぐに察した。
「弟さんは、お元気ですよ」
「お見せいただいて、よろしいですか」
「先に、こちらの依頼を」
「依頼の中身を、伺いましょう」
「お宅の二階に、傭兵が一人、寝込んでおられると聞きました」
「ご病人ですが」
「肩を斬られて、左腕の動きが悪い、と」
「ええ」
「その傭兵を、今夜、寝ている間にこちらへ引き渡してください」
「……」
「料金は、お宅の薬代の一年分。それと、弟さんの解放」
「……理由は」
「理由は、お話しすることではございません。傭兵というのは、たいてい誰かに追われているものです」
「……」
「マレーナさん。お返事は、ご丁寧でなくて結構です。今夜、二階の傭兵の戸を開けたままにしておいてくだされば、それで結構です」
声が止まった。
戸が、軽く閉まる音がした。
しばらく、薬局の中は静かだった。
俺は、階段を降りた。
マレーナは、戸の前に立っていた。
肩が、わずかに震えていた。
いつもの最短の動きの女ではなかった。
動きが止まっていた。
動けない女だった。
「マレーナ」
「……ご傭兵さん」
「全部、聞いた」
「……」
「弟さんは、生きているのか」
「……分かりません。半月、姿を見ていません」
「お前は、どうする」
「……分かりません」
「分からないままだと、たぶん、お前の弟も、お前も、町の難民も、全部まずいことになる」
「……分かっております」
「俺は、今夜、戸を開けたままにしておく」
マレーナの目が見開かれた。
「ただし、奥で寝てるふりはしない」
「……」
「リューリックは、すでに外に配置されている。たぶん、もう密輸団の連中の寝所も特定済みだ」
「あなた、何者ですか」
「ただの傭兵だよ」
「……二度目ですね、それ」
「二度目だ。三度目があるかは、たぶん、今夜の出来による」
マレーナは、しばらく俺を見ていた。
彼女の目は、湯あみの夜と、別の種類の深い色をしていた。
怖れと、怒りと、それから、何か、もうひとつ。
俺は、そのもうひとつを見ないことにした。
見ると、たぶん、俺の中の計算が、またひとつ崩れる。




