第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ④ 〜消えない熱〜
その夜、俺の熱はまた上がった。
四日目の、深夜近く。
湯あみのあと、いったん引いた熱が、寝台に戻ると、またぶり返した。
肩の傷ではなく、もっと内側の何かが煽られていた。
俺の中で、傷の熱と、惚れの熱が混じり始めて、もう、分けて数えるのができなくなっていた。
マレーナは、いつものように額に手を当て、温度を確かめた。
「上がっておりますね」
「ああ」
「お薬を、もう一服」
「飲む」
彼女は、湯薬を作って俺に飲ませた。
飲ませる時、彼女の指が、俺の口の脇に軽く触れた。
触れた指は、もう冷たくはなかった。
湯あみの後だから、たぶん彼女の体温も、まだわずかに上がっていた。
湯薬を飲み終えた俺の頭の中は、ぐらぐら揺れていた。
熱と、薬の苦みと、湯あみの記憶が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「ご傭兵さん」
「うん」
「お熱を引く方法は、薬だけではございません」
「……何を言っている」
「分からないふりを、なさいますか」
「した方が安全そうだからな」
「安全を選ぶなら、今夜はお休みください」
マレーナはそう言って、立ち上がろうとした。
俺は、彼女の袖を掴んだ。
掴んでから、遅れて気づいた。
熱のせいにするには、指先がはっきりしすぎていた。
「……レオンさん」
初めて、彼女が俺を名前で呼んだ。
ご傭兵さんではなかった。
それだけで、俺はもう、茶化せなくなった。
「五年、と言ったな」
「ええ」
「無理は、するな」
マレーナは、少しだけ目を伏せた。
「無理は、しておりません」
「本当か」
「本当です」
それから彼女は、薄く笑った。
「ただ、忘れていないか、確かめているだけです」
「何を」
「誰かに触れる時の、自分の手の温度を」
俺は何も言えなかった。
言えなかったことが、たぶん答えだった。
マレーナは、寝台の脇に静かに座った。
湯あみの後の薄い白い室内着のまま、帯がゆるく結ばれている。
ろうそくの光が、その布の端を、淡く染めていた。
「これは薬師の処置ではありません」
彼女は低く言った。
「半分だけ、そうです」
「半分は」
「私です」
彼女の声は、少しだけ掠れていた。
その掠れが、俺の理性を、最後のところでほどいた。
俺は、もう一度だけ言った。
「無理は、するな」
マレーナは、今度は笑わなかった。
「五年も、無理をしてきました」
「……」
「今夜くらい、無理ではないことを、選ばせてください」
彼女の手が、俺の額から、頬へ降りた。
頬から、喉へ。
喉から、胸元へ。
触れるというより、確かめる手だった。
ここに男の体温があるのか、ここにまだ生きている肌があるのか、自分の指で確かめている手だった。
俺は、何も言わなかった。
言えば、たぶん、彼女の手を止めてしまう。
止めてはいけない気がした。
マレーナは、俺の肌に額を寄せた。
呼吸が近かった。
薬草の匂いと、湯の匂いと、女の匂いが混じっていた。
「熱いですね」
「熱だからな」
「違います」
「何が」
「これは、生きている熱です」
彼女の唇が、俺の胸元に触れた。
唇、と言っていいほどの触れ方ではない。
ただ、一瞬、そこに柔らかいものが置かれた。
それだけで、俺の中の何かが、ひどく静かになった。
静かになったのに、熱は引かなかった。
むしろ、深くなった。
俺は、彼女の肩に手を置いた。
細い肩だった。
だが、その肩には、夫を看取り、子を見送り、五年分の男たちの熱と血を処理してきた重さがあった。
軽く抱ける肩ではなかった。
抱いたら、こちらまで何かを背負う肩だった。
それでも、俺は手を離さなかった。
「マレーナ」
「はい」
「俺は、たぶん、明日か明後日には出て行く」
「存じています」
「それでもいいのか」
「それでも、今夜ここにいるのは、あなたです」
彼女の答えは、迷いがなかった。
大人の女の迷いのなさだった。
迷わないのではない。
散々迷ったあとで、もう迷わない形に整えた声だった。
俺は、その声に負けた。
ろうそくが、細く揺れた。
マレーナの髪が、俺の頬に触れた。
彼女の手が、俺の傷を避けながら、男の肌を知っている手つきで、ゆっくりと体温を探した。
そこから先のことを、俺は、きれいな言葉で説明する気にはなれない。
ただ、五年、彼女が閉じ込めてきた熱が、俺の肌の上で、ようやく息をした。
俺の熱も、たぶん、その夜、少しだけ外へ逃げた。
傷の熱ではない。
持ち熱でもない。
名前のつかない、人の肌を求める熱だった。
◇
しばらく、二人とも動かなかった。
マレーナの手は、まだ俺に触れていた。
ただ、もう動いていなかった。
動きが止まった手は、もう薬師の手ではなかった。
「お熱、引きましたか」
「……分からん」
「では、もう少し、お休みください。私は、お片付けを」
「マレーナ」
「はい」
「ありがとう、では足りない」
「足りなくて結構です」
「……」
「足りる言葉を探すと、ご傭兵さんは明日、出て行かれます」
「なぜ分かる」
「そういう男の顔をしています」
彼女は、布を湯に浸した。
いつもの最短の動きだった。
さっきまでの手が嘘だったみたいに、もう薬師の手に戻っている。
戻るのが早すぎた。
早すぎる戻り方は、たぶん、彼女が自分を守るために覚えた技術だった。
「私は」
マレーナは、布を絞りながら言った。
「もう少しだけ、ご傭兵さんにいていただきたいのです」
俺は目を閉じた。
瞼の裏で、何かが滲んだ。
それは汗だ。
そういうことにした。
◇
翌朝。
俺の熱は、嘘のように下がっていた。
マレーナは、いつもの薬師の顔で、額に手を当てた。
「下がっておりますね。良うございました」
声に、何の感情も混ざっていなかった。
昨夜の何かは、彼女の声の中から、きれいに消えていた。
消し方が上手すぎた。
上手すぎる消し方は、たぶん、消すために長年訓練された動きだった。
俺も、何も言わなかった。
言うべきことを考えなかった。
考え始めると、たぶん、口から出てきてしまう言葉がいくつかあった。
その言葉は、まだ出すべきではなかった。
出すべきではない言葉は、たいてい、出すと誰かを傷つける。
朝食は、いつも通り、麦粥と薄いハーブの茶だった。
マレーナは、いつも通り椅子に座って、俺の食事を見守った。
いつも通りだった。
いつも通り、というのが、たぶん、彼女の防御の最後の一枚だった。
「ご傭兵さん」
「うん」
「今日、もうお熱が引きましたので、傷の縫い直しをいたします」
「ああ」
「縫い直しが終われば、二、三日で出立できます」
「分かった」
「……」
「マレーナ」
「ええ」
「五日、と言ったな」
「申しました」
「もう、四日目だ」
「ええ」
「あと一日、いさせてくれ」
「……」
「一日だけだ」
「分かりました」
彼女は、それだけ言うと、湯薬の器を片付けに部屋を出た。
俺は、その背中を最後まで見ていた。
彼女は、振り返らなかった。
振り返らなかったのは、たぶん、振り返ると、いろいろなものが崩れると知っていたからだった。




