第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ③ 〜業務外の熱〜
四日目の夜。
熱が、いっとき、わずかに下がった。
マレーナが「お湯にお入りになれます。汗を流したほうが、熱は早く引きます」と言った。
俺は頷いた。
頷いた瞬間に、自分でも、わずかに警戒を解いていた。
警戒を解くと、たいてい、まずいことが起きる。
俺の二十八年は、いつもそう教えてくれていた。
マレーナの家の奥には、小さな湯浴み室があった。
石を組んだ床に、桶を二つと、木の腰掛けが一つ。湯は温泉ではない。町の温泉から、別の管で引いた水を薪で沸かしている、贅沢な構造の家だった。
煙突から立ち上る湯気が、部屋全体を薄く霞めている。湯気は、夜の冷たい空気と混じって、屋根の梁を撫でるように流れていた。
湯の温度は、肩までつけると、傷の縫合糸の周りが、ピリピリと痺れるくらいに熱かった。
痛いのとも、熱いのとも違う。
もう少し奥のところで、何かが解けていく感覚だった。
俺は、湯船の縁に肩までつかった。
長く街道を走り、長く寝台にこもっていた体が、湯の中でゆっくりほぐれた。目を閉じると、額の汗が、ほんの数滴、湯に落ちた。その音を、耳がわざわざ拾った。
戸が、軽く開いた。
俺は、目を開けなかった。
誰が入ってきたのかは、足音と、湯気の動き方で分かった。
彼女だった。
「お背中、お流しいたします」
マレーナの低い声が、湯気の向こうから滑り込んできた。
俺の目は、まだ開かなかった。
開いたら、たぶん、もう止められなくなる。
止まらない男が、何を止めようとしているのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、なんとなく、まだ開いてはいけない、と本能が警告していた。
「いいのか」
俺は、薄く目だけ開けて、湯船の縁の石に視線を落としたまま訊いた。
「お背中の縫い目を確認したいのです。湯の中だと、糸の張りがよく分かります」
「業務、ということか」
「ええ、業務でございます」
「業務、ね」
「業務でなければ、ご傭兵さんのお背中を見る理由がございません」
その言い方が、たぶん卑怯だった。
業務、と言っておいて、業務でなければ見ない、と、わざわざ念を押す。
業務でない理由が、別にあるかもしれない、と、こちらに想像する余白を残す。
俺は、その余白を見ないことにした。
見ないことにしたが、すでに頭の中では、その余白が、はっきりと形を持ち始めていた。
マレーナは、腰掛けに座った俺の背中の後ろに、ぺたんと座った。
布が、湯気の中で、ふっとしなる音がした。
彼女は、湯浴みのために、薄い白い布の一枚を肩から巻いていた。
肌の上に、直接、布が一枚。
布の下は、たぶん、何もない。
湯あみの薬師が、患者の介助のために最小限の布で入るという構造らしかった。
その構造が、戦時のこの町では合理的なのか、慣習なのか、それとも彼女個人の選択なのか、俺には分からなかった。
分からなかったが、合理性、慣習、選択、どれであっても、俺の心臓には同じ強度で効いた。
「縫い目、見えますか」
「見えます。きれいに塞がりかけています」
「業務、終了か」
「いえ。お背中をお流しします。汗が傷口に入ると、また化膿いたしますので」
「それも、業務」
「業務です。あくまで、業務」
彼女は、湯で湿らせた布を、俺の左肩の縫合の外側から、ゆっくり垂直に撫で下ろした。
力は入っていなかった。
ただ、布越しに、彼女の指の骨の輪郭が薄く伝わった。
肩の傷の周りの、まだ硬く赤いところを、彼女は避けながら、その周辺の汚れだけを丁寧に洗い流した。
手の動きが、いちいち最短だった。
最短の動きは、いちばん無駄なく肌に触れる。
無駄なく触れる、というのは、必要なところに、必要なだけ触れるということだった。
必要なだけ、なのに、不必要に効いた。
効いた、というのは、俺の心拍が、湯の温度では説明のつかない速度になっていた、ということだ。
「お湯の中で、心拍が上がっておられますね」
マレーナの声が、俺の左肩のすぐ後ろから聞こえた。
「……湯が熱いせいだ」
「お湯のせいではない、ということを、薬師は見抜きます」
「お前、卑怯だな」
「お前、とお呼びになるのは、距離を取りたいご傭兵さんの癖でしょうか」
「……うるさい」
「お返事の歯切れも、距離を取る癖でしょうか」
マレーナの手が、左肩から、肩甲骨のあいだに滑った。
俺の背中の真ん中に、彼女の手のひらの、温度ではなく形が当たった。
手のひらは冷たかったはずなのに、その瞬間だけ、湯気の中で暖かく感じた。
「お背中の、左の肩甲骨の脇に、古い傷がございますね」
「ああ」
「これは、戦傷ではないですね」
「……分かるか」
「戦傷の傷の塞がり方ではありません。もう少し、子供のころの、跳ねた油か、何かの火傷の痕です」
「子供のころの、いたずらだ」
「殿下のいたずらは、お古うございますな」
ぴたり、と俺の心臓が止まった。
マレーナは、何も続けなかった。
ただ、湯気の中で、こちらの反応を静かに見ている気配がした。
「……何を、知っている」
「いいえ、何も存じません」
「では、なぜ」
「お背中の傷の癖と、お肩の姿勢の癖と、湯あみの最中の表情の癖。三つで、たぶん、お貴族だった、と申し上げております」
「貴族、ね」
「公国の王族か、それに準ずる方かと」
「……」
「もちろん、私は何も知りません」
「お前、薬師にしては、人をよく読みすぎる」
「薬師は、人の体を毎日読みます。体には、生まれと、暮らしと、戦と、嘘が、全部書いてあります」
俺は、低く息を吐いた。
息を吐いたら、湯の表面がわずかに揺れた。
「……一人にしてくれ、と言ったら、出て行くか」
「出てまいります」
「出て行けば、お前は安全だ」
「私の安全は、ご傭兵さんの判断するところではございません」
「……」
「ご傭兵さん。あなたは、出て行ってほしいのではなくて、出て行ってほしくない、と言いたいのではないでしょうか」
俺は、答えなかった。
答えなかったのが、たぶん答えだった。
マレーナは、それ以上何も訊かなかった。
ただ、布をもう一度湯につけて、絞り、俺の右肩から、二の腕の包帯の脇まで、ゆっくり流した。
その手の動きが、また最短だった。
最短の手の動きは、最も優しかった。
「マレーナ」
呼んでしまってから、自分でまずいと思った。
彼女は、手を止めた。
「はい」
「……いま出て行けば、たぶん安全だ」
「何からでしょう」
「俺から」
マレーナは少しだけ笑った。
湯気の向こうで、目元だけが笑っていた。
「ご傭兵さん」
「うん」
「薬師は、危ない患者を置いて部屋を出ません」
「俺は患者か」
「半分は」
「残り半分は」
「……申し上げません」
俺の心拍は上がりっぱなしだった。
下半身の方も、湯の中で、本人の意思を無視しはじめていた。
湯の中だから、たぶん、彼女には見えていない。
見えていないはずだが、薬師は、見えないものも読む種類の女だった。
「ご傭兵さん」
「うん?」
「お湯の中で、もう一つ、熱が出ておられますね」
「……うるさい」
「これは、業務外の熱でございます」
「業務、終了ということか」
「業務、終了です」
マレーナの手が止まった。
止まった手は、しばらく、俺の背中の真ん中に置かれたままだった。
彼女は、何かを考えているようだった。
あるいは、何かを決めているようだった。
決めるまでに、彼女が自分の中でいくつの計算を回したのかは、俺には分からなかった。
彼女が、ふっと立ち上がった。
「お湯、もう少し、ごゆっくりお入りください」
彼女はそれだけ言って、戸の方へ歩いた。
湯気の中で、白い布が、ふわりと揺れた。その揺れの陰で、彼女の腰の輪郭が、一瞬だけ見えた。
見えた、と思っただけかもしれない。
俺はそれを、見たことにしなかった。
見たことにしなかったのは、俺の理性の最後の一かけらの抵抗だった。
戸が閉まった。
俺は湯船の中で、しばらく両手で顔を覆っていた。
……まずい。
本当に、まずい。
傷の熱は、たぶん引き始めている。
なのに別の熱が、はっきり残っている。
マレーナの言う「消えない熱」というものが、少しだけ分かった気がした。




