表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/75

第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ③ 〜業務外の熱〜

 四日目の夜。


 熱が、いっとき、わずかに下がった。


 マレーナが「お湯にお入りになれます。汗を流したほうが、熱は早く引きます」と言った。


 俺は頷いた。


 頷いた瞬間に、自分でも、わずかに警戒を解いていた。


 警戒を解くと、たいてい、まずいことが起きる。


 俺の二十八年は、いつもそう教えてくれていた。


 マレーナの家の奥には、小さな湯浴み室があった。


 石を組んだ床に、桶を二つと、木の腰掛けが一つ。湯は温泉ではない。町の温泉から、別の管で引いた水を薪で沸かしている、贅沢な構造の家だった。


 煙突から立ち上る湯気が、部屋全体を薄く霞めている。湯気は、夜の冷たい空気と混じって、屋根の梁を撫でるように流れていた。


 湯の温度は、肩までつけると、傷の縫合糸の周りが、ピリピリと痺れるくらいに熱かった。


 痛いのとも、熱いのとも違う。


 もう少し奥のところで、何かが解けていく感覚だった。


 俺は、湯船の縁に肩までつかった。


 長く街道を走り、長く寝台にこもっていた体が、湯の中でゆっくりほぐれた。目を閉じると、額の汗が、ほんの数滴、湯に落ちた。その音を、耳がわざわざ拾った。


 戸が、軽く開いた。


 俺は、目を開けなかった。


 誰が入ってきたのかは、足音と、湯気の動き方で分かった。


 彼女だった。


「お背中、お流しいたします」


 マレーナの低い声が、湯気の向こうから滑り込んできた。


 俺の目は、まだ開かなかった。


 開いたら、たぶん、もう止められなくなる。


 止まらない男が、何を止めようとしているのか、自分でもよく分からなかった。


 ただ、なんとなく、まだ開いてはいけない、と本能が警告していた。


「いいのか」


 俺は、薄く目だけ開けて、湯船の縁の石に視線を落としたまま訊いた。


「お背中の縫い目を確認したいのです。湯の中だと、糸の張りがよく分かります」


「業務、ということか」


「ええ、業務でございます」


「業務、ね」


「業務でなければ、ご傭兵さんのお背中を見る理由がございません」


 その言い方が、たぶん卑怯だった。


 業務、と言っておいて、業務でなければ見ない、と、わざわざ念を押す。


 業務でない理由が、別にあるかもしれない、と、こちらに想像する余白を残す。


 俺は、その余白を見ないことにした。


 見ないことにしたが、すでに頭の中では、その余白が、はっきりと形を持ち始めていた。


 マレーナは、腰掛けに座った俺の背中の後ろに、ぺたんと座った。


 布が、湯気の中で、ふっとしなる音がした。


 彼女は、湯浴みのために、薄い白い布の一枚を肩から巻いていた。


 肌の上に、直接、布が一枚。


 布の下は、たぶん、何もない。


 湯あみの薬師が、患者の介助のために最小限の布で入るという構造らしかった。


 その構造が、戦時のこの町では合理的なのか、慣習なのか、それとも彼女個人の選択なのか、俺には分からなかった。


 分からなかったが、合理性、慣習、選択、どれであっても、俺の心臓には同じ強度で効いた。


「縫い目、見えますか」


「見えます。きれいに塞がりかけています」


「業務、終了か」


「いえ。お背中をお流しします。汗が傷口に入ると、また化膿いたしますので」


「それも、業務」


「業務です。あくまで、業務」


 彼女は、湯で湿らせた布を、俺の左肩の縫合の外側から、ゆっくり垂直に撫で下ろした。


 力は入っていなかった。


 ただ、布越しに、彼女の指の骨の輪郭が薄く伝わった。


 肩の傷の周りの、まだ硬く赤いところを、彼女は避けながら、その周辺の汚れだけを丁寧に洗い流した。


 手の動きが、いちいち最短だった。


 最短の動きは、いちばん無駄なく肌に触れる。


 無駄なく触れる、というのは、必要なところに、必要なだけ触れるということだった。


 必要なだけ、なのに、不必要に効いた。


 効いた、というのは、俺の心拍が、湯の温度では説明のつかない速度になっていた、ということだ。


「お湯の中で、心拍が上がっておられますね」


 マレーナの声が、俺の左肩のすぐ後ろから聞こえた。


「……湯が熱いせいだ」


「お湯のせいではない、ということを、薬師は見抜きます」


「お前、卑怯だな」


「お前、とお呼びになるのは、距離を取りたいご傭兵さんの癖でしょうか」


「……うるさい」


「お返事の歯切れも、距離を取る癖でしょうか」


 マレーナの手が、左肩から、肩甲骨のあいだに滑った。


 俺の背中の真ん中に、彼女の手のひらの、温度ではなく形が当たった。


 手のひらは冷たかったはずなのに、その瞬間だけ、湯気の中で暖かく感じた。


「お背中の、左の肩甲骨の脇に、古い傷がございますね」


「ああ」


「これは、戦傷ではないですね」


「……分かるか」


「戦傷の傷の塞がり方ではありません。もう少し、子供のころの、跳ねた油か、何かの火傷の痕です」


「子供のころの、いたずらだ」


「殿下のいたずらは、お古うございますな」


 ぴたり、と俺の心臓が止まった。


 マレーナは、何も続けなかった。


 ただ、湯気の中で、こちらの反応を静かに見ている気配がした。


「……何を、知っている」


「いいえ、何も存じません」


「では、なぜ」


「お背中の傷の癖と、お肩の姿勢の癖と、湯あみの最中の表情の癖。三つで、たぶん、お貴族だった、と申し上げております」


「貴族、ね」


「公国の王族か、それに準ずる方かと」


「……」


「もちろん、私は何も知りません」


「お前、薬師にしては、人をよく読みすぎる」


「薬師は、人の体を毎日読みます。体には、生まれと、暮らしと、戦と、嘘が、全部書いてあります」


 俺は、低く息を吐いた。


 息を吐いたら、湯の表面がわずかに揺れた。


「……一人にしてくれ、と言ったら、出て行くか」


「出てまいります」


「出て行けば、お前は安全だ」


「私の安全は、ご傭兵さんの判断するところではございません」


「……」


「ご傭兵さん。あなたは、出て行ってほしいのではなくて、出て行ってほしくない、と言いたいのではないでしょうか」


 俺は、答えなかった。


 答えなかったのが、たぶん答えだった。


 マレーナは、それ以上何も訊かなかった。


 ただ、布をもう一度湯につけて、絞り、俺の右肩から、二の腕の包帯の脇まで、ゆっくり流した。


 その手の動きが、また最短だった。


 最短の手の動きは、最も優しかった。


「マレーナ」


 呼んでしまってから、自分でまずいと思った。


 彼女は、手を止めた。


「はい」


「……いま出て行けば、たぶん安全だ」


「何からでしょう」


「俺から」


 マレーナは少しだけ笑った。


 湯気の向こうで、目元だけが笑っていた。


「ご傭兵さん」


「うん」


「薬師は、危ない患者を置いて部屋を出ません」


「俺は患者か」


「半分は」


「残り半分は」


「……申し上げません」


 俺の心拍は上がりっぱなしだった。


 下半身の方も、湯の中で、本人の意思を無視しはじめていた。


 湯の中だから、たぶん、彼女には見えていない。


 見えていないはずだが、薬師は、見えないものも読む種類の女だった。


「ご傭兵さん」


「うん?」


「お湯の中で、もう一つ、熱が出ておられますね」


「……うるさい」


「これは、業務外の熱でございます」


「業務、終了ということか」


「業務、終了です」


 マレーナの手が止まった。


 止まった手は、しばらく、俺の背中の真ん中に置かれたままだった。


 彼女は、何かを考えているようだった。


 あるいは、何かを決めているようだった。


 決めるまでに、彼女が自分の中でいくつの計算を回したのかは、俺には分からなかった。


 彼女が、ふっと立ち上がった。


「お湯、もう少し、ごゆっくりお入りください」


 彼女はそれだけ言って、戸の方へ歩いた。


 湯気の中で、白い布が、ふわりと揺れた。その揺れの陰で、彼女の腰の輪郭が、一瞬だけ見えた。


 見えた、と思っただけかもしれない。


 俺はそれを、見たことにしなかった。


 見たことにしなかったのは、俺の理性の最後の一かけらの抵抗だった。


 戸が閉まった。


 俺は湯船の中で、しばらく両手で顔を覆っていた。


 ……まずい。


 本当に、まずい。


 傷の熱は、たぶん引き始めている。


 なのに別の熱が、はっきり残っている。


 マレーナの言う「消えない熱」というものが、少しだけ分かった気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ