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第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ② 〜子供の部屋〜

「ご傷ですね」


 マレーナの第一声は、それだった。


 俺の左肩、右の二の腕、それから額の包帯。三つの包帯を、彼女の目はほんの二秒で確認した。


 名前を訊くより、症状を訊くより、先に傷を見る。


 医者の家系の癖、というやつだ。


「ええ、ご傷で」


「お幾つ、お持ちで?」


「肩が一番ひどい。今、熱が出てる」


「お熱、何日目でしょう」


「二日目。昨日の夕方から」


「お食事は」


「半分くらい、入っている」


「お水は」


「街道で、できる限り」


 彼女の質問は短い。だが、無駄がない。


 俺の答えも短くなった。短く答えても、必要な情報がこぼれない種類の女だった。


「お上がりください。二階に診察台があります」


「いいのか、客が」


「私は、診ることを商売としております」


「料金は」


「お話は、後で」


 俺は、戸口で軽くリューリックを振り返った。


 リューリックは一度、頷いた。いつもの「お任せします」の頷きだった。ただし、その頷きの後ろに、ほんの少しだけ「お一人で大丈夫ですか」が混じっていた気がした。


「私は、宿を取ってまいります」


「ああ」


「殿下」


「うん?」


「お薬代に、お命を、上乗せなさいませんように」


「お前、無駄に上手いこと言うな」


「家令の家系の副業の本義として、警句は無駄ではございません」


 リューリックは、薬局の戸を静かに閉めて出て行った。


 俺は、マレーナの後について奥の階段を上がった。



 ◇



 二階の診察室は、思ったより広かった。


 壁の三面が薬棚。棚には、ガラスの小瓶や、紙袋や、布の小袋が整然と並んでいる。瓶のラベルは、几帳面な手書きで、薬草の名前と、調合した日付が書かれていた。日付の古いものから手前に並べる。新しいものを奥に置く。彼女の手の癖が、棚の並び方で読めた。


 部屋の中央に、長い木の診察台。


 脇に、湯を沸かす小さな炉。


 窓は、北向きに一つ、東向きに一つ。北の窓からは山が、東の窓からは町の屋根並みが見える。光は北窓から白く、柔らかく入ってくる。診察室の光としては、これ以上ない、適切な光だった。


 棚のラベルのいくつかには、人間の文字ではない小さな記号が混じっていた。


 ドワーフ語だ、とリューリックなら言うだろう。


 マレーナの父は、カラドリン山岳王国と王国東部を往来した薬種商だったという話を、俺はあとで聞くことになる。


 この時はまだ、彼女の薬が、この町よりずっと遠い場所と繋がっていることを、知らなかった。


 マレーナは、診察台の脇に椅子を一つ引き、低く言った。


「お上着を」


 俺は、ためらわずに上着を脱いだ。


 ためらいたかったが、肩の包帯と、二の腕の包帯と、額の包帯のせいで、一人では脱ぎにくく、結局、彼女に半分手伝ってもらった。


 彼女の手は、冷たかった。


 冷たさは、業務的というより、薬を扱う者の指先が、常に乾燥していて、体温がわずかに低いというだけのことだった。その冷たさが、俺の熱の上に、ぴたりと当てられる。


「ひどいですね」


 肩の包帯を解いた彼女の声が、初めて、わずかに感情の色を帯びた。


 怒り、というほどではない。


 ただ、呆れと心配が混ざった声だった。


「縫合は悪くないんですが、二度、開いていますね。二度、別の手で縫い直されている」


「二人、別人ですか」


「一人目は、女の手。手早い。糸の運びが、看護師の手」


「二人目は」


「もっと若い、女の手。雑だが、結び目が丁寧」


「……お分かりになるのか」


「縫い目には、書いた人間の癖が残ります。文字と同じです」


 マレーナは軽く笑った。


 その笑いには、ニーナの笑いとも、セラの笑いとも違う、もう一段奥の余裕があった。


「私が、三度目を縫います」


「お願いします」


「ただし、今日は縫いません」


「は?」


「お熱が引いてからです。今、縫うと、また膿みます」


「いつ、引きますか」


「私の見立てでは、三日。長くて五日」


「五日も?」


「お急ぎですか」


「……いえ。急いでない」


「では、五日、ここにいてください」


 彼女は、それだけ言うと薬棚の方へ立った。


 立ち上がる動きが、無駄なく滑らかだった。長年の癖というやつだ。歩く時、立つ時、屈む時、彼女の体は、いつも最短の動線を選ぶ。


 彼女のそれは、ニーナの「走る」とも、セラの「直線的に通る」とも、別の質感だった。


 しっとり、と動く女だった。


 しっとり、というのは、湿っているわけではない。


 ただ、彼女の関節は、いつも、わずかに油が回っているように滑らかに動く。


 その動きの一つひとつが、俺の中の熱を、わずかに煽った。


 ──まずい。


 惚れる熱と、傷の熱が混じり始めている。


 二つの熱が混じると、たぶん、もっと引きが悪くなる。


 俺の頭の中の医学知識は、たぶん、そう警告していた。



 ◇



「お名前を、伺っても?」


 薬棚の前で、湯薬を調合しながら、マレーナが振り向きもせずに訊いてきた。


「レオン」


「お姓は」


「ない」


「では、ただの傭兵さんで構いませんね」


「ただの傭兵さんで」


「私は、マレーナ。マレーナ・ベルケと申します。十年前から、この町で薬師をしております」


「ベルケ、というのは、家名ですか」


「亡くなった夫の家名です」


 ふっ、と彼女の手が止まった。


 止まったのは、ほんの一拍だった。


 すぐに、また湯薬を混ぜ始めた。


 ただ、その一拍の止まり方が、俺の中で引っかかった。


「ご主人は、いつ」


「五年前です。戦で」


「……ご病気ではなくて」


「最初は、戦傷でした。深い傷ではなかったのですが、熱が引かなかったのです。一月、ずっと、四十度近い熱が出続けて。最後は、何の熱なのか、誰にも分からなくなりました」


「消えない熱、でしたか」


「ええ。消えない熱でした」


 マレーナは、薬を一さじ、湯に落とした。


 湯から、薄い緑の煙が立ち上った。


 薬草の匂いだった。微かに苦く、微かに甘い、戦場ではよく嗅いだ匂い。だが、ここで嗅ぐと、まったく違うものに感じる。


「夫が死んでから、私は薬師になりました。それまでは、ただの妻でした。子供もおりましたが」


「……お子さんも」


「夫の翌年に、亡くなりました。流行病で。熱が消えませんでした」


 俺は、何も言わなかった。


 言える言葉がなかった。


 戦場の傭兵が、こういう話に気の利いたことを言える、と思っているのは、たいてい、人を喪ったことがない男だ。


 俺は、喪ったことがある側だった。


 国を、父を、妹を、家臣の半分以上を、まとめて喪ったと思って生きてきた。


 喪った側の人間が、喪った側の人間に、何かを言うことの不毛さは知っていた。


 だから、ただ黙った。


 マレーナも、それ以上語らなかった。


 彼女は、調合の終わった湯薬を小さな器に注ぎ、俺の前に差し出した。


「お飲みください。苦いです」


「ありがとう」


「五日、ここにいる間は、私がお世話をいたします。男性が一人で宿で寝込んでも、ろくに食事も取れません。傷が悪化します」


「お世話、というのは」


「お食事、湿布、湯あみ、薬、それと、お話相手」


「お話相手?」


「熱が出ている男性は、たいてい、何かを話したがります。話す相手がいないと、熱がこもります」


 マレーナは軽く笑った。


 ただ、その笑いの奥に、何か別のものが薄く見えた気がした。


 言葉ではなく、表情でもなく、ただ、目の縁の、わずかな張り方だった。


 俺は、その何かを見ないことにした。


 見ないことにしたが、見えてしまったのは、また別の話だった。



 ◇



 その日の夜、俺は診察室の隣の小部屋で寝かされた。


 元は、亡くなった子供の部屋だったらしい。


 木の小さな寝台、壁に貼られた色褪せた絵、棚の上に置かれた小さな木彫りの馬。マレーナは何も言わずに、その部屋に新しいシーツを敷き、新しい毛布を置いた。


「狭いですが、二階で一番、暖かい部屋です」


「……お子さんの部屋では」


「子供は、もうここを必要としていません。あの子の代わりに、誰かがここで寝てくれる方が、たぶん、あの子は嬉しがります」


「……」


「気にしないでください。私は、これを五年続けています」


 五年、続けている。


 それがどういう意味なのか、俺は訊かなかった。


 訊かなかったが、たぶん、彼女はこの部屋に、戦傷の男を何人か寝かせてきたのだろう。その何人かは、彼女に何かを残して出て行った。残したものが何だったのかは、彼女と、その男たちの間の話だ。


 俺は、毛布の中で目を閉じた。


 肩の熱が、首の付け根まで上がってきていた。額に、彼女の冷たい手が、ほんの一瞬当てられた。


 その手の冷たさを、俺は肌で覚えた。


 ぼんやりとした意識のなかで、俺は馬鹿なことを考えていた。


 ──惚れる、というのは、自分の中に、相手の体温の記憶をしまうことだ。


 ──しまった記憶は、もう出ていかない。


 ──体温の記憶がしまえる数には、たぶん限りがある。


 ──俺の中の引き出しは、まだ、いくつ空いているのだろう。


 答えは出なかった。


 代わりに、俺は眠った。


 熱の中の眠りは、いつも、夢を見ない。



 ◇



 三日が過ぎた。


 俺の熱は、上下を繰り返した。


 朝、わずかに下がり、昼、わずかに上がり、夕方、また下がり、夜、最も上がる。


 そのたびに、マレーナが、額に湿布を貼り直し、湯薬を飲ませ、汗を拭った。


 彼女の手の動きは、いつも同じだった。


 無駄がなく、しっとりしていて、わずかに冷たい。


 冷たさは、慣れると心地よかった。


 慣れすぎると、その冷たさが離れた時、自分の肌が急に温度を失ったような気がする。


 俺はそれを、二日目の夜に気付いた。


 気付いたことを、彼女には言わなかった。


 言ったら、たぶん、彼女は笑う。


 彼女の笑いをもう一度見たい気もしたが、笑われた瞬間に、俺の中の何かが、引き返せない場所に行ってしまう予感もした。


 俺は、その予感を信用した。


 昼間は、リューリックが町を歩き回って、情報を集めていた。


 彼が宿で待っているはずがない、と俺は知っていた。


 夜になると、彼は薬局を訪れて、俺の容態を確認していった。


 マレーナとも、何度か短い会話を交わした。


 その会話の内容を、俺は横で半分眠りながら聞いていた。


 町には、いま、二つの問題があった。


 ひとつ。


 冬の終わりから、坑夫の若者たちが急に金回りが良くなり、町の酒場に見知らぬ顔の連中が増えている。連中は商人を名乗っているが、商人の顔ではない。


 ふたつ。


 マレーナの薬局に、最近、夜更けに見知らぬ男が何度か立ち寄っている。マレーナは、その男に、いくつかの薬を無償で渡している。その薬は、痛み止めと、眠り薬と、出血止めだった。


 二つの話を、俺は半分眠ったまま、頭の隅で繋いだ。


 眠っている俺の頭の中で、計算がいつものように始まっていた。


 ──まずい。


 マレーナは、何かに噛まれている。


 俺は、その何かに、たぶん首を突っ込むことになる。


 突っ込んだら、たぶん痛い目を見る。


 いつもの計算だった。


 ただし、今回は、計算の答えに、ひとつ、いつもとは違う項目が混じっていた。


 マレーナに、痛い目を見せたくない。


 その項目は、俺の戦法の計算式の中には、本来、存在しないはずのものだった。


 二十八年、ずっと自分の生存確率だけを計算してきた俺の式に、今回、女の生存確率の項が加わっていた。


 俺は、その項を消さなかった。


 消さなかったのが、たぶん、いけなかった。


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