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第三部 薬師マレーナと、消えない熱の話 ① 〜鋼の山の薬師〜

第3部、また新たな町で新たな出会いが始まります

 熱、というのは、たいてい二種類ある。


 ひとつは、出すべき熱だ。


 傷口が膿んで、体が膿を外へ追い出そうとして、押し上げる熱。これは、医者が無理に下げると、かえって命を縮める。膿が逃げ場を失い、内側で腐っていくからだ。だから戦場の軍医たちは、ある程度までは熱を出させる。汗を引かせ、水を飲ませ、ただ見守るだけの夜が、数えきれないほどある。


 もうひとつは、出してはいけない熱だ。


 体の内側に、何か別のものが居座って、外へ出ようとしない熱。これは、止めるか、外に逃すか、どちらかをしないと命を削る。傷とは関係なく、ただ熱だけが人を蝕む。


 古い軍医たちは、これを「持ち熱」と呼ぶ。


 本人の中で、どこから来たのか分からない。いつ始まったのかも分からない。いつ終わるのかも分からない。そういう熱だ。


 シュタールベルクの薬師、マレーナは、その二種類を一目で見分ける女だった。


 そして俺は、たぶん、その二つ目の熱を両手いっぱいに抱えて、この町に着いた。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ただの傭兵。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、惚れた相手からいろいろなものをもらって、最後に痛い目を見ること。


 今回は、いつもより少し、痛い目だった。



 ◇



 リンデン村を出て、街道を東へ、馬で五日目の朝に、シュタールベルクは見えてきた。


 春の遅い北の山並みが、まだ薄く白い。その白さの裾に、屋根が幾重にも連なる町が、谷の縁にしがみつくように広がっていた。煙突が、町のあちこちから白い煙を吐き出している。製鉄炉だった。


 シュタールベルクは「鋼の山」という名のとおり、もとは鉱山の町で、王国東部の鉄を支えている。


 ただし、戦時の今は、鉄の半分が剣に化け、剣の半分が傭兵の腰に下がっていく。鉱山町は、戦争で潤い、戦争で疲弊する。山の麓には若い坑夫が減って、代わりに難民の親子が、空いた家に住み着いていた。


 鉱山町から、緩やかに難民町へ滑り落ちていく途中の町。


 それが今のシュタールベルクだった。


 町の南端には、温泉が湧いている。


 もとは坑夫たちが、一日の終わりに体を洗いに来る共同浴場だった。今では、難民や、戦傷者や、流れの傭兵が、湯銭を払って体を温めている。湯の質は、王国東部でも有数だと街道筋で聞いた。


 俺は、その湯に、たぶん長く浸かることになる、と予感した。


 予感の理由は単純だった。


 ここ二日、肩がうずいて、首の付け根が熱を持っていた。額に手を当てるたびに、自分の指のほうが冷たく感じる。馬上で揺られていると、視界の縁が、わずかに白く滲んだ。


「殿下、お顔の色が、わずかにすぐれません」


 馬を並べて進むリューリックが、いつもより半拍早く声をかけてきた。心配しているのを、心配していないふりで言うのが、こいつの癖だった。


「分かってる」


「分かっておられて、何もなさらないのも、いつものことでございますな」


「対処を、今、考えている」


「対処の九割は、惚れることで置き換えられるご性分かと、お見受けします」


「うるさい。九割じゃない、八割五分くらいだ」


「五分の違いは、家令の家系の副業の本義として、誤差の範囲内です」


「誤差にするな。俺の名誉に関わる」


「殿下のご名誉は、亡国と同時に、すでに公的には消失しております」


「私的には残っている」


「私的なご名誉は、本人のお気持ちで自由に膨らみますな」


「お前、年々、口が悪くなってるな」


「殿下と長く過ごすと、家令の本義も進化いたします」


 言い返すには、頭の中の熱が邪魔だった。


 その黙りを、リューリックは正確に読んだらしく、ほんの少しだけ馬の歩みを緩めた。


「シュタールベルクには、王国東部で評判の薬師がおります」


「評判の薬師、ね」


「『斬られ方が下手な傭兵を、何度も縫い直した女』だと、街道筋の宿屋で何度か聞きました」


「……縫い直した側に評判が立つのか」


「縫い直される側の評判は、たいてい、聞こえる前に本人が死ぬからでございましょう」


 俺は、また黙った。



 ◇



 町の入口は、思ったより賑やかだった。


 石組みの古い門の脇に、衛兵が二人立っている。だが、彼らの目は、商人の荷を一瞥するだけで、特に厳しい検問はしていなかった。鉱山町は、人の出入りを止めると商売が止まる。商売が止まると町が干上がる。だから、戦時でも、ここの門は緩い。


 緩い門は、傭兵にとっても、暗殺者にとっても、ありがたい門だ。


 俺たちが入市帳に名前を書く時、衛兵の年寄りのほうが、俺の左肩の包帯と、右の二の腕の包帯を目だけで確認した。


「あんた、薬師んとこ、行くのか」


「行きます」


「マレーナの薬局、中央通りの北側、石造りの三階建てだ」


「分かった」


「ただし、あの薬師は、男に対して優しすぎる」


「優しすぎると、何か困るのか」


「優しすぎる薬師に世話になると、出てくる頃には、薬代より高いものを置いていく羽目になる」


 衛兵の年寄りは、いたずらっぽく笑った。


 歳の功というやつだろう。男が男に、こういう冗談をこっそり共有する時の笑い方だった。


 俺はその笑いを、軽く受け流して町に入った。


 受け流しはしたが、頭の片隅には、ちゃんと引っかけてしまっておいた。


 戦時の傭兵は、年寄りの軽口を馬鹿にしてはいけない。


 たいてい、半分くらいが本当のことだ。



 ◇



 マレーナの薬局は、すぐに見つかった。


 石造りの三階建て。一階が薬局、二階が住居、三階が、たぶん物干しか、薬草を干す場所。間口は狭いが、奥行きは長く、町の縦割りの古い建築様式そのままだった。


 建物の脇には小さな庭があって、そこに何種類かの薬草が、整然と並んで植えられている。素人目にも、手入れが行き届いているのが分かった。


 看板は、薄い真鍮の板で、控えめに「マレーナ薬局」とだけ書かれている。


 子供の文字でも、医者の家系の太い字でもなかった。落ち着いた、慣れた手の筆跡だった。書いた本人が、自分の名前を看板にすることに、特別な感慨を持っていない種類の字だった。


 戸を押すと、軽い鈴が、上から鳴った。


 その音に応じて、奥の暖簾の向こうから、声がした。


「お入りください。少々、お待ちを」


 低めの、落ち着いた、湿った声だった。


 湿った、というのは、雨上がりの空気のような湿り方で、女の声に対して使う言葉としては、たぶんおかしい。だが、俺の耳には、そう聞こえた。


 その声を聞いた瞬間、俺の中の専門技能が、ぐらりと起きた。


 まずい。


 まだ、顔を見てもいない。


 顔を見たら、間違いなく、もっとまずい。


「殿下、ご自重を」


 リューリックが、俺の馬鹿の予感を、もう察知していた。


 俺は、リューリックの顔を見ないようにして、奥の暖簾を見た。



 ◇



 暖簾が、ゆっくりと、内側に押された。


 中から、女が現れた。


 歳は、たぶん三十二、三だろう。肌の張りはまだ若いが、目元のほんの脇に、長く笑ってきた人特有の薄い陰影がある。黒い髪を後ろで一つにまとめている。ただし、ニーナのような雑な束ね方ではなく、布で丁寧に巻いた、職業的な束ね方だった。前髪を一筋だけ、額の脇に垂らしている。


 それが計算なのか、ただほどけたものなのか、俺の目では判別できなかった。


 背は、俺の鎖骨くらいまでだろうか。


 着ているのは、薬師の白い前掛けに、その下に、深い紺色の長衣。布の質はいい。だが、装飾はほぼない。袖口だけが、薬を扱う手元のために少し短めに仕立て直されていた。実用の服だ。


 それでも、その実用の下に、女の体の輪郭が、隠しきれずに滲んでいる。


 胸は、控えめだが、しっかりある。腰は、長く立ち働いてきた女の、引き締まった腰だ。


 顔は、整っている、というより、整いすぎてはいない。


 目尻は少し下がっていて、口元は、わずかに口角が上がる癖がついている。怒ったり、急いだりする顔を長年しないでいると、口元はこういう形に固定される。


 俺は、たぶん五秒くらい、戸の前で止まっていた。


 マレーナが、その俺をしばらく見ていた。


 怪訝そうな顔ではなかった。


 むしろ、慣れた顔だった。


 戸口で五秒止まる男を、何度も見てきた女の顔だった。


「いらっしゃい」


 彼女は薄く笑った。


 笑い皺が、目尻の脇で自然に深まった。


 俺の中の専門技能は、その瞬間、戦闘準備態勢に入った。


 ──ああ、また、惚れる。


 今回は、いつもより深い。


 深い惚れは、たいてい、ろくな目を見ない。


 俺の二十八年は、そう教えてくれていた。


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