第四部 外科医ヴェロニカと、敵兵を縫う話 ④ 〜夜の手術〜
「俺は、患者だぞ」
「だから逃げにくい」
「外科医が言っていい台詞じゃない」
「昼の私は外科医だ」
「今は」
「私の夜だ」
ヴェラの手が、俺の手に重なった。
彼女は、自分の手で俺の手を、自分の太腿の上へ引いた。
彼女が引いた。
俺は引かれた。
順番が、いつもと逆だった。
今夜の選択権は、彼女の側にあった。
「ヴェラ」
「ん」
「これは、お前が選んでいるな」
「うん」
「俺じゃない。お前だ」
「うん」
「了解した」
「了解する側になるのか、あんたは」
「初体験だ」
「初体験は、お互い似合わない」
「だな」
ヴェラは、ふっと笑った。
頬の傷の上の軟膏が、笑いと一緒にわずかに揺れた。
俺は、その揺れを見ていた。
見ていたものが、瞼の裏に焼き付いた。
焼き付いたものは、たぶん、もう消えない。
◇
ヴェラは、ろうそくを半分まで絞った。
半分の光の中で、白いシュミーズが肩から滑り落ちていった。
俺はそれを見ていた。
止めなかった。
止める権利が、俺にはなかったからだ。
シュミーズの下から現れた肌は、想像していたより白く、傷だらけだった。
古い棒の痕。
鞭の痕。
火の痕。
十三歳から革命までの八年分の傷が、肩から、胸の脇から、腰の脇にかけて点在していた。
俺は、それを隠さずに見た。
「これ、見せたのは」
「ん?」
「いいのか」
「いい」
「隠さなくていいのか」
「隠す相手じゃ、ないみたいだから」
「……」
「私の傷を見て引く男は、私の中で、夜の側には回らない」
「夜の側」
「昼は患者を診る。夜は男を選ぶ」
「はっきり言うな」
「はっきり言わないと、境界線が曖昧になる」
ヴェラの手が、俺の頬に置かれた。
冷たい手だった。
手術台で、何度も消毒液を浴びてきた、長年の冷たさ。
その冷たさが、俺の頬でゆっくり温度を得ていった。
彼女は目を閉じた。
「……動く」
「うん」
「動くんだな、私の手は」
「動くな」
「動いていいんだな」
「ああ」
彼女の手は、俺の頬から首筋へ、首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸の包帯へ降りていった。
降りていく途中で、ときどき止まる。
止まったあと、自分の意志でまた動く。
止まる二、三秒は、たぶん、彼女の中にいた十三歳や十七歳の彼女が、一度現れては消えていく時間だった。
彼女は、自分の中の過去を一度ずつ押しのけながら、手を進めていた。
俺は、それをただ感じていた。
止めなかった。
止めることが、彼女の選択を奪うことになる。
奪われることを、彼女にもう一度させたくなかった。
「レオン」
初めて、彼女が俺の名を呼んだ。
昼の診察名ではない。
夜に選んだ男の名として。
「ん」
「あんたは、動け」
「どこまで」
「私が止めるまで」
「止めたら」
「止まれ」
「分かった」
「分かった、で済むのか」
「俺は馬鹿だが、そこは間違えない」
「ふん。いい雄だ」
「雄って言うな。急に獣感が増す」
「獣じゃないなら、戦場で何度も死にかけない」
「それはそう」
ヴェラの口元が、ほんの少しだけ上がった。
次の瞬間、その笑いは消えた。
彼女は、自分から身を寄せてきた。
怪我人の動きではなかった。
外科医の動きでもなかった。
夜の女の動きだった。
俺は彼女の背に手を回した。
骨が細い。
だが、細い骨の上に、解剖刀を握ってきた筋肉がある。
傷の痕を避けながら触れると、彼女の呼吸が、ほんの少しだけ乱れた。
「そこは、古い」
「痛いか」
「痛くない。覚えているだけ」
「触れない方がいいか」
「触れ。覚え直す」
俺は、言われたとおりにした。
彼女が自分で引いた境界線を、彼女の許した場所だけ、越えた。
そこから先のことを、俺はきれいな言葉で説明する気にはなれない。
ただ、ヴェラの夜は、マレーナの夜と似ていなかった。
マレーナの夜は、五年閉じ込められていた熱が、ようやく息をした夜だった。
ヴェラの夜は、戦場で澱んだ欲望が、自分の意志で獲物を選び、噛みつき、確かめる夜だった。
彼女は弱くなかった。
泣かなかった。
縋らなかった。
ただ、俺を選んだ。
選んで、捕まえた。
傷を避け、包帯を避け、息を合わせ、どこまでが治療で、どこからが夜なのか、自分の手で決めながら近づいてきた。
彼女の頬の傷の脇に、俺は口を寄せた。
口づけ、というほど綺麗なものではない。
ただ、そこに息を預けた。
彼女の頬が、わずかに震えた。
震えは長く続かなかった。
数秒で止まった。
止まったあと、ヴェラは低く笑った。
「レオン」
「ん」
「生きているな」
「かなりな」
「よかった」
その声が、今夜で一番危なかった。
俺は何も返さなかった。
返す言葉が、たぶんその夜、いちばん要らないものだった。
夜明け前、彼女は俺の左肩の包帯の上に頬を預けて眠った。
頬の傷の側を下にして。
その肌の温度を、俺は肩で受け止めていた。
肩の傷の熱と、彼女の頬の温度が混ざった。
今夜、彼女は初めて、自分の意志で誰かの肩で眠った。
その夜の主役は、俺ではなかった。
彼女の選択そのものだった。
俺は、それを肩で受け止め続けた。
ろうそくは、いつの間にか消えていた。
◇
翌朝。
ヴェラは、いつもの主任外科医の顔で目を覚ました。
顔を洗い、白衣を着て、軍服を上から羽織る。
包帯を巻き直す。
いつもの最短の動きだった。
俺の顔は見ない。
見ないことが、彼女のいつもへの戻り方だった。
俺も、それを訊かなかった。
訊かないことが、俺の側の戻り方だった。
ただし、出ていく前に、彼女は戸口で一度だけ振り返った。
「レオン」
「ん」
「昨夜のことは」
「忘れない」
「まだ、何も言っていない」
「忘れていい、と言う顔だった」
「……ふん」
「忘れない」
「なぜ」
「お前が選んだからだ」
ヴェラは黙った。
少しだけ目を細める。
「私の選択は、私のものだ」
「ああ」
「あんたの記憶は、あんたのものか」
「ああ」
「なら、勝手にしろ」
ヴェラは、ふっと笑った。
その笑いは、昨夜の女の笑いではなかった。
昼の外科医でもなかった。
その両方を含んだ、新しい笑いだった。
俺は、その笑いを勝手に信じることにした。




