第四十一部 鷲の制服と、俺の名前で集められた人々の話 ④ 夕方の紙、俺の名前
夕方まで、第三宿駅に留まることになった。
カミラの判断だった。
俺の左腕は浅い傷で済んだが、動かせば血が滲む。煙も少し吸った。さらに、広場の混乱が収まるまでに移動すれば、目立つ。
救恤所では、麦粥がもう一度配られ始めた。
俺が荷物を運んだ母親は、子どもを抱いたまま診療天幕の近くへ座っている。女の子は薬を飲み、毛布へ包まれ、少し眠ったらしい。
「ありがとう」
母親が言った。
「別に」
俺は答えた。
「護衛料は、帝国へ請求する」
母親は、少しだけ困った顔をした。
「冗談だ」
「顔が冗談に見えない」
かなり正確だった。
その時、大鍋の前にいた老女が近づいてきた。
麦粥を配っていた女である。
「傭兵」
「ああ」
「食べな」
木椀を差し出される。
麦粥。
豆。
少しの塩。
細かく刻んだ乾燥肉。
派手ではない。
だが、湯気が立っている。
「金は」
「いらないよ。今日は働いた」
「非常に珍しい」
「何が」
「無償で飯をもらえる」
「普段、どんな生き方をしているんだい」
「効率的に」
老女は、俺の額のこぶ、焦げた眉、包帯、煤の残った頬を見た。
「効率が悪そうな顔だね」
「今日は、少しだけ事故が重なった」
「女に殴られた跡もあるね」
カミラが、少し離れた場所で聞いている。
「一部は、国家による制裁だ」
「国家ではなく、私個人だ」
すぐに訂正が入った。
老女は、俺とカミラを順番に見たあと、木匙を大鍋へ戻した。
「仲がいいねえ」
「違う」
カミラが即座に否定する。
「便宜上の同行者だ」
「便利な言葉だねえ」
老女は笑った。
俺も麦粥を一口食べる。
温かい。
塩は少ない。
それでも、体へ入る。
石畳には、まだ完全には消えていない血の跡がある。
少し前まで、ここで人が死んだ。
それでも。
麦粥は配られる。
子どもは眠る。
母親は毛布を掛け直す。
兵士は紙を分ける。
宿駅長は、救恤所の帳面へ戻る。
生活は、止まらない。
残酷さを忘れるわけではない。
ただ、残酷さだけで人間を埋め尽くさない。
たぶん。
生きるということは。
そういうことなのだと思う。
◇
日が沈む少し前、フォーゲル大尉が一枚の紙を持ってきた。
「旧北路第七集積所について、分かったことがある」
俺とカミラは、救恤所の奥にある小さな事務室へ入った。
机の上へ広げられたのは、この周辺の古い街道図だった。
灰鐘関所。
第三宿駅。
第四宿駅。
古い補給路。
炭焼き場。
雪解け水を避けるための迂回路。
その中に、第七集積所という名前はない。
フォーゲル大尉は、地図の西側へ指を置いた。
「ただし、旧北路第七補給場という場所があった」
「過去形?」
カミラが訊く。
「二十年ほど前に閉鎖された。帝国が西側の補給線を整理した時、使われなくなった施設だ。今は、通常の軍用地図から外されている」
「建物は残っている?」
「倉庫。馬小屋。兵舎。古い柵。全部が使える状態かは分からない」
「人を集めるには十分か」
「十分すぎる」
大尉の声が低くなる。
「街道から少し外れている。通常の荷車は通らない。夜に人を運べば、第三宿駅から見えなくなる」
「誰が管理している」
「名目上は、北方軍保安監督室の保管地だ」
また。
同じ部署。
「第四宿駅を経由する?」
俺が訊くと、大尉は頷いた。
「表向きは。だが、今夜移送する予定だった札を見る限り、第三宿駅から古い補給路へ直接入れる」
「先回りできる?」
「歩きでは厳しい」
「馬は」
「二頭用意する」
カミラが、すぐに口を挟む。
「私は乗れる。あんたは」
「乗れる」
「左腕は」
「右手で手綱を持つ」
「剣は」
「右手で持つ」
「両方を同時に?」
少し考える。
「非常に難しい」
「今日は休め」
「第七補給場には、すでに人がいる可能性がある」
「だからこそ、途中で落馬するな」
正確だった。
だが。
俺より先に歩いている名前がある。
俺の名前で集められた人間がいる。
旧リュカリオン。
散った村。
家族。
親族。
移送札。
青い細線。
それを、明日まで待てと言われても、簡単には頷けない。
「レオン」
カミラが言った。
本当の名前。
事務室には、フォーゲル大尉もいる。
だが、彼女は隠さなかった。
「急ぐな」
「急ぐ」
「走るな」
「馬だ」
「そういう話ではない」
カミラは、俺の包帯へ視線を落とした。
「今夜、傷を開けば、明日動けない。第七補給場へ着いても、剣を握れない。守りたいなら、今日だけは守れ」
自分の体を。
そういう意味だった。
何度も。
言われた。
本当に。
しつこい。
だが。
正しい。
「分かった」
俺は答えた。
「明け方に出る」
カミラの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「守る?」
「ああ」
「本当に?」
「護衛料が上がるからな」
「最低だな」
「報酬は重要だ」
フォーゲル大尉は、俺たちを見ていた。
「レオン」
低い声だった。
俺は、大尉を見る。
「聞かなかったことにするべきか」
「便宜上、ロド・カナリだ」
「非常に便利な言葉だな」
「最近、流行っている」
フォーゲル大尉は、少しだけ考えた。
それから、地図の端へ指を置く。
「旧リュカリオンの王子は、死んだと聞いていた」
「俺も、かなり死にかけた」
「見れば分かる」
「今日は少しだけ損傷している」
「少し?」
「かなり」
大尉の目が、ほんの少しだけ緩んだ。
「明け方、馬を二頭出す。俺は、ここへ残る。救恤所と証人を守る。部下を二人付けると言いたいが、命令系統が読めない今は、かえって危険かもしれない」
「二人で行く」
カミラが答えた。
「便宜上?」
俺が訊く。
「ああ」
カミラは、こちらを見た。
左肩を痛めている。
疲れている。
役所へ戻れない。
帝国軍から拘束命令も出ている。
それでも。
目は変わらない。
まだ、何一つ諦めていない目だった。
「明け方に出る」
カミラは言った。
「第七補給場へ行く。あんたの名前で集められた人間を、取り戻す」
俺は、机の上にある古い地図を見た。
まだ旧五国連合の境へ入っていない。
旧リュカリオンは、さらに西にある。
それでも。
昔の国の名前は。
もう。
俺より先に。
人を集めている。
「俺の名前で集まるな」
声に出す。
誰へ言うでもなく。
だが。
はっきりと。
「俺の名前で、勝手に死ぬな」
カミラは、何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
頷いた。
──第四十一部 了




