第四十一部 鷲の制服と、俺の名前で集められた人々の話 ③ 診療天幕と、あなたは
診療天幕へ運ばれ、傷を洗われた。
年配の医者は、俺の左腕を見ながら、呆れたように息を吐いた。
「浅いが、汚れている。動かすな」
「剣は握れる?」
「握るな」
「いつから」
「少なくとも、今日いっぱい」
「第三宿駅を出る必要がある」
「なら、右手だけで歩け」
極めて合理的だった。
俺が毛布の上へ座っていると、カミラは隣で包帯を押さえていた。自分の左肩も痛めているのに、人の傷へ気を取られている。
「自分の肩も見せろ」
俺が言うと、カミラは眉を寄せた。
「今は、あんたが先だ」
「同行者の管理だ」
「私の傷は開いていない」
「確認する」
「必要ない」
「安全確認だ」
「どこを見るつもりだ」
難しい質問だった。
少し考える。
「主に、肩」
「主に?」
「ほぼ」
カミラの右手が、俺の包帯の上を少し強く押した。
「痛い」
「傷だけ見ろ」
「まだ何も見ていない」
「顔が見ている」
診療天幕の医者は、俺とカミラを順番に見た。
何も言わなかった。
非常に大人だった。
◇
広場では、フォーゲル大尉が宿駅長、曹長、救恤所の医者、麦粥を配っていた老女を集めていた。
移送は止まった。
救恤は続ける。
薬も、麦粥も、毛布も配る。
ただし、旧籍照合だけは止める。
青い細線が引かれた紙は、原本と写しを分けて保全する。
捕らえたゼーフェルトは、灰鐘関所へ送らない。
少なくとも、すぐには。
「どこへ送る」
曹長が訊くと、フォーゲル大尉は少し考えた。
「ここで拘束する。伝令を三人出せ。一人はヴァルター軍監へ。一人は灰鐘関所のヘルマン副書記官へ。一人は別経路で北方軍連絡所へ。誰が、どの紙を持ち、何時に出たか残せ」
「保安監督室へは」
「送るな」
「正式命令に反します」
「今、俺が反する」
声は低い。
だが、迷いはなかった。
「紙を燃やし、人を脅し、子どもへ弩を向けた男が、正式な救恤調整室の書記官を名乗っていた。命令系統のどこまでが腐っているか分からない。分からないなら、一か所へ集めるな」
カミラが、少しだけ目を細めた。
同じ言葉だった。
紙も。
証人も。
命令も。
一か所へ集めない。
燃やす側が、追いつけない数まで分ける。
フォーゲル大尉は、こちらへ歩いてきた。
俺は診療天幕の前へ座ったまま、顔を上げる。
「傭兵」
「ああ」
「名は」
少しだけ間が空いた。
「ロド・カナリ」
フォーゲル大尉は、俺の顔を見た。
次に、宿駅長が保全した受領書へ目を向ける。
「昨日、この宿駅へ木箱を運んだ傭兵も、ロド・カナリと名乗った」
「聞いた」
「二人目か」
「本物のつもりだ」
「証明できるか」
「今のところ、俺の方が顔が良い」
フォーゲル大尉は、俺の額のこぶ、焦げた眉、煤の残った頬、左腕の包帯を順番に見た。
「判断が難しい」
「今日だけ少し損傷している」
「少し?」
「かなり」
大尉の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
だが、すぐに戻る。
「昨日の偽者は、西へ向かった」
「ああ」
「旧北路第四宿駅へ行くと言ったらしい」
「追う」
「その腕で?」
「歩ける」
「剣は」
「右手で持てる」
カミラが、隣から低い声で言った。
「今日は休ませる」
「本人の意見は」
「聞いていない」
「非常に横暴だ」
「昨日から何度も無理をした人間の意見は、参考程度でいい」
フォーゲル大尉は、俺とカミラを見比べた。
「同行者か」
「便宜上」
カミラが答える。
「非常に便利な言葉だな」
俺が言うと、カミラの右足が俺の靴へ載った。
「痛い」
フォーゲル大尉は、今度こそ少しだけ笑った。
◇
「あなたは」
フォーゲル大尉が、カミラへ視線を向けた。
「鉱山の記録係ではないな」
広場の騒ぎは少しずつ収まり始めていた。
麦粥の列が作り直され、診療天幕の前では薬を待つ人々がもう一度並び、兵士たちは青い細線が引かれた紙束を種類ごとに分けている。
それでも、何人かは聞いている。
帝国軍の大尉。
偽名を使う傭兵。
頭巾を被った黒髪の女。
カミラは、すぐには答えなかった。
逃げることもできる。
知らないと言うこともできる。
だが。
この大尉は、正式な命令へ穴があると判断し、子どもへ弩を向けた人間を捕らえ、救恤を止めず、旧籍照合だけを止めた。
誰へ何を話すか。
順番を選ぶ必要がある。
「カミラ・パヴェル」
低い声だった。
「イタリカ監察官だ」
宿駅長が息を呑んだ。
曹長の顔も少しだけ硬くなる。
フォーゲル大尉は、驚かなかった。
「公文書持ち出しの容疑で、保護拘束命令が出ている」
「ああ」
「所持しているか」
「ある」
「渡せと言えば」
「断る」
カミラは迷わなかった。
「ノヴァローマで再審理を潰そうとした者がいる。薬を抜き、坑夫を消し、移送札を書き換え、証人を外した。灰鐘関所では、同じ系統の紙が燃やされかけた。ここでは、救恤を使って旧五国出身者を集めている。どこまでが同じ手かは、まだ断定できない」
「だから、渡さない」
「ああ」
「帝国軍を信用しない?」
カミラは、少しだけ大尉を見た。
「信用だけへ頼らない」
フォーゲル大尉は、しばらく黙っていた。
風が広場を通り抜ける。
大鍋から立つ湯気。
血の跡を洗い流す水。
泣き疲れた子ども。
石畳へ落ちた麦粥。
帝国の制服。
救恤所の紙。
青い細線。
全部が、同じ場所へある。
「正しい」
大尉は言った。
「俺も、信用だけへ頼るつもりはない」
カミラの目が、少しだけ動く。
「だが、見逃すと言うのか」
「見逃したとは書けない」
「では」
「確認できなかったと書く」
フォーゲル大尉は、頭巾を被ったカミラを見た。
「俺が第三宿駅で確認したのは、ミラ・パウルという鉱山の記録係と、ロド・カナリと名乗る傭兵だ。二人は、子どもへ弩を向けた男を止め、救恤所の火災を防いだ。それ以上の身元については、騒ぎの中で確認できなかった」
「大尉」
曹長が低い声で言った。
止めるためではない。
確認するためだった。
フォーゲル大尉は、曹長へ目を向ける。
「書けるか」
曹長は、少しだけ考えた。
「事実です」
「ああ」
事実。
便利な言葉だった。
だが。
嘘ではない。
全部でもない。
カミラは、少しだけ頭を下げた。
「借りは作らない」
「返す必要はない」
「それでも返す」
「なら、生きて西へ行け」
フォーゲル大尉は答えた。
「第七集積所がどこにあるか、調べる。第四宿駅から先は、俺たちの命令が届くより、相手の方が速い可能性がある」
「なぜ、そこまで」
俺が訊いた。
大尉は、広場へ並ぶ人々を見た。
「帝国の制服を着ているからだ」
短い言葉だった。
だが、軽くない。
「帝国の名で集めた人間を、どこにあるかも分からない場所へ送るなら、俺は知らなかったでは済まない」
祖国を滅ぼした国。
父を処刑した国。
俺を奴隷にした国。
その国の制服を着た男が。
帝国の名前を軽く使わせないと言っている。
簡単ではない。
本当に。
──第四十一部 了




