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第四十一部 鷲の制服と、俺の名前で集められた人々の話 ② 泣き出した女の子と、ゼーフェルト

 最初に泣き出したのは、小さな女の子だった。


 街道で転びかけ、俺が母親の荷物を持った子どもである。


 母親は、診療天幕で薬包を受け取ったあと、麦粥の列へ並んでいた。ようやく温かい物を食べさせられると思ったのだろう。だが、照合済みの紙へ青い細線が引かれていたため、兵士の一人から広場の反対側へ移るよう言われた。


「お母さんと一緒がいい」


 女の子は、母親の外套を掴んでいる。


「一緒だよ。離れない」


 母親は抱き上げようとしたが、疲れている。荷物もある。子どもの体には熱も残っている。


 ゼーフェルトは、穏やかな声で言った。


「心配は要りません。親子は同じ車両へ乗せます。今夜のうちに、安全な施設へ移します」


「どこですか」


「第七集積所です」


「どこにあるんですか」


「西側です」


「夫が、東の宿場で待っています。明日には戻ると伝えてあるんです」


「身元確認が済めば、連絡できます」


「今、連絡できないんですか」


 ゼーフェルトは、少しだけ沈黙した。


「手続きが必要です」


 便利な言葉だった。


 母親の顔に、不安が広がる。


「薬だけ、受け取って帰れませんか」


「旧籍照合済みの方は、保護対象です」


「私は、帰りたいんです」


「保護のためです」


「帰りたいんです」


 言葉は、もう噛み合っていない。


 保護。


 帰りたい。


 制度。


 生活。


 紙。


 人間。


 カミラの体が、ほんの少しだけ動いた。


 出ようとしている。


 だが、まだ止まった。


 フォーゲル大尉が、ゼーフェルトへ顔を向けたからである。


「本人が拒否している」


 大尉の声は低い。


「強制移送の権限は、命令書に書かれていない」


「保護対象です」


「強制移送の権限は、書かれていない」


 フォーゲル大尉は同じ言葉を繰り返した。


 声を荒らげない。


 それでも、少しも引かない。


 ゼーフェルトの目が、わずかに細くなった。


「大尉。灰鐘関所で、公文書が燃やされました。偽造札が流れています。公文書持ち出しの容疑者も、この方面へ向かった可能性がある。旧籍照合済みの者を留めておけば、また狙われます」


「だから、どこにあるかも分からない集積所へ、説明なしで連れていくのか」


「命令です」


「命令なら、全部書け」


 フォーゲル大尉は、持っていた紙を一度折った。


「移送先の責任者。警備担当。収容人数。医療体制。食料。家族への連絡方法。移送を拒否した者の扱い。何一つ書かれていない」


 広場の空気が止まった。


 帝国軍人が。


 帝国の命令へ。


 穴があると言った。


 ゼーフェルトの口元から、初めて穏やかな表情が消えた。


「現場で補うために、あなた方を呼んだのです」


「俺たちは、空白へ人を入れるために呼ばれたわけではない」


 フォーゲル大尉は、曹長へ言った。


「移送は止める。救恤は続けろ。旧籍照合の紙は、一度保全する」


「大尉」


 ゼーフェルトの声が低くなる。


「正式な命令へ反するおつもりですか」


「確認が取れるまで止める。俺の名前で、人を運ぶ命令は出さない」


 その言葉は。


 少しだけ。


 胸の奥へ入った。


 俺の名前で、人を運ぶな。


 俺の名前で、人を集めるな。


 まだ口に出していない。


 だが。


 同じことを考えている人間が。


 帝国の制服を着ていた。


 簡単ではない。


 本当に。



 ◇



 ゼーフェルトは、何も言わなかった。


 一度だけ、周囲を見る。


 兵士。


 曹長。


 宿駅長。


 救恤所の人足。


 診療天幕。


 麦粥の大鍋。


 泣いている子ども。


 そして。


 倉庫。


 こちらを見た。


 棚板の隙間は細い。


 見えているはずはない。


 それでも、視線が止まった。


「気づいたか」


 俺が小さく言うと、カミラは返事をしなかった。


 代わりに、体を少しだけ低くする。


 ゼーフェルトは、ゆっくり右手を上げた。


「大尉」


「何だ」


「保全するなら、今すぐ倉庫を調べるべきです。持ち出された紙が残っている可能性があります」


「順番に調べる」


「今です」


 声が変わった。


 穏やかな書記官の声ではない。


 焦っている。


 フォーゲル大尉も気づいた。


「曹長。照合班を――」


 言い終わる前に、若い方の書記官が動いた。


 抱えていた紙束を投げ捨て、外套の内側から小さな弩を出す。


 狙ったのは、フォーゲル大尉ではない。


 母親だった。


 青い細線が引かれた紙を持ち、子どもを抱いている女。


 証人。


 名簿へ載った人間。


 人質にしやすい人間。


 俺は棚の裏から飛び出した。


 狭い隙間に長く押し込められていたせいで、最初の一歩は少しだけ遅れた。だが、弩の弦が鳴る前に、体を母親と書記官の間へ入れる。


 短い音。


 左腕へ衝撃が走った。


 矢は外套を裂き、上腕の肉を浅く抉った。骨までは届いていない。それでも熱い痛みが遅れて広がり、血が袖へ滲む。


「下がれ!」


 俺は母親へ叫んだ。


 女は子どもを抱き、地面へ身を伏せる。


 広場が一気に崩れた。


 兵士が剣へ手を掛ける。


 救恤を受けに来た人々が叫び、麦粥の椀が石畳へ落ち、大鍋の脇で老女が木匙を握ったまま動けなくなる。


 ゼーフェルトは、机の上に置かれていた火鉢を蹴った。


 炭が散る。


 乾いた紙へ赤い火が移る。


 さらに、腰から黒松脂の小瓶を抜く。


 フォーゲル大尉が剣を抜いた。


「動くな!」


「大尉!」


 曹長の声が飛ぶ。


 若い書記官は弩を捨て、短剣を抜いた。


 俺へ来る。


 速い。


 書記官ではない。


 最初から、人を殺すために動ける人間である。


 短剣は、俺の腹を狙っている。


 半歩下がれば避けられる。


 だが。


 後ろには母親と子どもがいる。


 下がれない。


 剣を抜く。


 鞘が鳴る。


 短剣の軌道を外へ流し、そのまま相手の胸元へ刃を入れる。


 肉を裂く。


 骨へ当たる。


 さらに押す。


 血が飛ぶ。


 相手の目が見開かれた。


 短剣が石畳へ落ちる。


 俺は剣を引き抜いた。


 男は、膝から崩れた。


 殺した。


 必要だった。


 下がれば、後ろの母子へ刃が届いた。


 捕らえるために手加減すれば、次の一撃が来た。


 だから斬った。


 それでも。


 軽くはない。


 血の匂いが、麦粥と煙の匂いへ混ざる。


「ロド!」


 カミラの声が飛んだ。


 見る。


 ゼーフェルトが黒松脂の小瓶を大鍋の脇へ投げようとしている。


 救恤所の机。


 紙束。


 毛布。


 乾いた薪。


 人。


 火が回れば、倉庫だけでは済まない。


 俺は踏み込もうとした。


 だが、左腕が痛む。


 矢傷。


 血。


 剣。


 間に合わない。


 その前に。


 カミラが動いた。


 左肩を庇いながら、右手だけで受付机へ置かれていた木の帳面台を持ち上げ、ゼーフェルトの手首へ叩きつける。


 鈍い音。


 小瓶が石畳へ落ちる。


 割れない。


 ゼーフェルトが顔を歪め、もう一方の手でカミラの喉元を掴もうとする。


 カミラは、半歩だけ横へずれた。


 無理に力で勝とうとしない。


 掴みに来た腕を流し、足を払う。


 ゼーフェルトの体勢が崩れる。


 その瞬間。


 フォーゲル大尉の剣が、男の首元へ止まった。


「動くな」


 低い声だった。


「次は斬る」


 ゼーフェルトは、石畳へ片膝を付いたまま動かなかった。


 曹長と兵士二人が駆け寄り、腕を後ろへ回して縄を掛ける。


 広場の端では、別の兵士が散った炭へ砂を掛け、宿駅長が人足へ水桶を運ばせていた。


 診療天幕の医者は、泣いている子どもと母親の無事を確かめている。


 麦粥の大鍋は倒れていない。


 火も広がっていない。


 それでも。


 石畳には血が流れている。


 さっきまで人だった男が倒れている。


 救恤所へ並んでいた人々は、誰も声を出せない。


 俺は剣を下ろした。


 右手に血が付いている。


 左腕からも血が流れている。


 呼吸が少し速い。


 カミラが、こちらへ来た。


「腕を見せろ」


「浅い」


「見せろ」


「今は」


「見せろ」


 逆らう余地がない。


 剣を石畳へ置き、裂けた袖を上げる。


 矢は抜けている。


 皮膚と肉を斜めに削っただけだった。


 それでも血は出ている。


 カミラは、歯を食いしばった。


「下がるなと言っただろ」


「後ろに子どもがいた」


「だからと言って、全部受けるな」


「矢の一本で済んだ」


「あんたは、いつもそう言う」


 怒っている。


 怖かったのだと思う。


 声は低い。


 表情も崩さない。


 それでも、包帯を出そうとする右手が少し震えていた。


「カミラ」


 名前を呼ぶ。


 カミラの手が止まる。


「大丈夫だ」


「大丈夫かどうかは、医者が決める」


「最近、いろいろな人に言われる」


「なら、覚えろ」


 少しだけ。


 頬が緩む。


「努力する」


 カミラの目が細くなる。


「守る」


「最初から、そう言え」


 正確だった。



 ──第四十一部 了


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