表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

220/290

第四十一部 鷲の制服と、俺の名前で集められた人々の話 ① 鷲の制服と、フォーゲル大尉

 倉庫の外で馬の蹄が止まり、整った足音が広場へ入ってきた時、最初に動いたのはカミラだった。


 窓の隙間から外を確かめていた彼女は、机の上へ広げられていた移送札を素早くまとめると、俺へ説明するより先に、倉庫の奥へ置かれた古い棚の裏を指差した。


「入れ」


「二人で?」


「ほかに隠れる場所があるなら、三秒以内に言え」


 見渡してみる。


 古い荷物倉庫の中には、毛布を積んだ木箱、救恤所で使う空の紙箱、割れた椅子、縄、使われなくなった荷車の車輪が置かれていた。裏口へ戻れば外から見える。梁へ上がれば、傷んだ肩を使う必要がある。棚の裏にある狭い隙間だけが、紙束を抱えたまま身を隠せる場所だった。


「非常に合理的だ」


「早くしろ」


 先に入ったカミラの後ろへ続き、棚と石壁の間へ体を滑り込ませる。


 狭い。


 思っていたより、かなり狭い。


 俺が背中を壁へ付けると、カミラは正面から体を重ねるような姿勢になった。左肩を痛めているため、不自然に捻ることもできない。頭巾の下から覗く短い黒髪が顎へ触れ、薬草、汗、洗った布の匂いが近くなる。


 胸元も近い。


 近いというより、ほとんど当たっている。


 外には正式な帝国兵が十二人ほどいる。俺の革袋には五束の紙があり、机の上には旧五国出身者を集めるための名簿と、今夜動かされる予定の移送札が残っている。見つかれば、面倒な事情では済まない。


 それでも、人間の頭は一つのことだけを考えるようにはできていない。


 帝国軍の封鎖。


 旧籍照合。


 青い細線。


 俺の名前を使って集められた人々。


 そして、胸元。


 どれも、現在の状況を正確に把握するためには重要である。


「心臓が速い」


 カミラが、ほとんど息だけで言った。


「緊張している」


「外の兵士に対してか」


「主に」


「今、視線が下がった」


「退路を確認している」


「私の胸元に退路はない」


「まだ断定はできない」


 カミラの右手が、俺の脇腹へゆっくり回った。


 殴ることも、肘を入れることもできない。物音を立てれば外に聞こえる。


 だから彼女は、昨日までに痛めた場所を正確に探し当て、指先で少しずつ力を加えた。


 非常に痛い。


 だが、声は出せない。


「反省したか」


 カミラが小さく訊いた。


「かなり」


「視線は」


「退路から撤収した」


「遅い」


 再会してから何度も聞いた言葉だった。


 外では、兵士の声が響いている。


「北方軍保安監督室、直属護送班だ。第三宿駅を一時封鎖する。宿駅長、救恤所責任者、書記官は広場へ出ろ。旅人と救恤対象者は、その場を動くな」


 低く、よく通る声だった。


 命令に慣れている。


 無駄に怒鳴らない。


 それでも、逆らう余地を残さない。


 棚板の隙間から外を見ると、広場へ入ってきた兵士たちは二列に分かれ、一方は街道側の出口を押さえ、もう一方は救恤所の机と診療天幕の間へ立った。


 鎧は揃っている。外套にはグランデル帝国の鷲が縫い取られ、槍の穂先も、腰の剣も、泥に汚れた靴も手入れされている。黒い外套で顔を隠し、火壺を投げた男たちとは違う。


 正規の帝国軍である。


 だからこそ、厄介だった。



 ◇



 広場の中央へ、宿駅長が出てきた。


 少し前まで救恤所の帳面を確かめていた男である。太い眉の下にある目は警戒していたが、逃げようとはしなかった。


「第三宿駅長、オットー・ベルナーだ」


「責任者は、あんたか」


 兵士たちの先頭に立っていた男が訊いた。


 四十代半ばほどだろう。背は高くないが、肩幅が広い。兜は被っておらず、短く刈った灰色の髪と、額の古い傷が見えている。装飾の多い鎧ではない。剣の柄も擦れている。現場へ出ることが多い人間なのだと思う。


「北方軍保安監督室付き、護送隊長だ」


 男は、自分の名を告げた。


「エルンスト・フォーゲル大尉。命令に基づき、旧北路周辺で発生した偽造札事件、灰鐘関所の放火事件、公文書持ち出し事件を調べる。関係書類と責任者を引き渡してもらう」


「書類は、何の書類だ」


 宿駅長が訊く。


「旧籍照合記録、仮身元証明書、移送札、救恤対象者名簿。それから、灰鐘関所を抜けた傭兵ロド・カナリが持ち込んだ木箱の中身だ」


 俺は、棚の裏で少しだけ眉を寄せた。


 俺の名前が、正式な帝国軍の口から出た。


 紙の上だけではない。


 兵士が動くための言葉として。


 帝国の制服を着た人間が、俺の偽名を読み上げている。


 カミラも、わずかに息を止めた。


「ロド・カナリは、もう西へ行った」


 宿駅長が答えた。


「木箱は、旧籍照合班へ渡した。中身は、印章と封蝋と未記入の札だった」


「照合班の責任者は」


「救恤調整室から来た書記官だ。広場の奥にいる」


 宿駅長が視線を向ける。


 救恤所の受付机の近くで、灰色の外套を着た男が二人立っていた。


 一人は、青い細線を引いていた書記官だった。年齢は三十代後半ほど。薄い唇。細い目。髪はきちんと撫でつけられ、書記官の服も汚れていない。


 もう一人は、少し若い。机の上へ積まれた紙束を両手で抱えている。


 麦粥を配っていた老女も、診療天幕の医者も、毛布を運んでいた人足も、その二人から少し距離を取っていた。


 同じ救恤所で働いていても、最初から一つではなかった。


「照合班、前へ」


 フォーゲル大尉が命じた。


 細い目の書記官が、ゆっくり広場の中央へ進む。


「北方救恤調整室、臨時照合官のマルク・ゼーフェルトです」


「命令書を」


「こちらに」


 ゼーフェルトは、内ポケットから折り畳んだ紙を出した。


 フォーゲル大尉は受け取り、内容を読み始める。


 棚の隙間から見える範囲でも、紙へ帝国の鷲が押されていることは分かった。封蝋。署名。正式な形式。灰鐘関所で見たものと同じである。


「旧五国連合域に出生、居住、親族関係を持つ者については、本人確認を優先し、旧北路第七集積所へ移送する」


 フォーゲル大尉が読み上げる。


 広場へ並んでいた人々の間で、低いざわめきが起きた。


「移送?」


 女の声がした。


「薬をもらえるだけじゃなかったのか」


「子どもが熱を出している。どこへ連れていくんだ」


「家族と一緒なのか」


 声は少しずつ増えていく。


 昨日から歩き、麦粥と薬を求めて第三宿駅へ来た人々である。移送されるために並んでいたわけではない。


 フォーゲル大尉は、命令書から顔を上げた。


「救恤所へ来た全員を移送するのか」


「いいえ」


 ゼーフェルトは落ち着いた声で答えた。


「旧籍照合済みの者だけです。身元確認と保護を目的とした一時移送です。今夜、第七集積所へ移し、そこから就労斡旋、仮住居、身元証明書の再発行を進めます」


「本人へ説明したのか」


「受付で、必要事項は伝えています」


 俺は、少し前に見た母親を思い出した。


 子どもが熱を出している。


 薬が欲しい。


 麦粥が欲しい。


 寝床が欲しい。


 名前を書けば助けてもらえる。


 そう聞いた。


 旧北路第七集積所へ移されるとは、聞いていない。


 説明したという言葉と、理解して同意したという事実は、同じではない。


「大尉」


 ゼーフェルトは続けた。


「灰鐘関所で放火事件が起きました。偽造札も見つかっています。旧籍照合を済ませた人々を、この宿駅へ留め続ければ危険です。帝国の保護下へ移す必要があります」


 言葉だけを聞けば、間違っていないように見える。


 安全。


 保護。


 身元確認。


 就労斡旋。


 仮住居。


 必要とされる言葉を、必要な順番へ並べている。


 紙へ書かれた帝国の鷲と、正式な制服が、その言葉へ重さを与えている。


「大尉」


 もう一人の兵士が、低い声で言った。


 フォーゲル大尉の隣へ立っている。三十代ほどの曹長らしい。


「移送先の第七集積所は、北方軍の通常施設一覧へありません」


 広場の空気が、少しだけ変わった。


 ゼーフェルトは、表情を変えなかった。


「臨時施設です」


「設置命令は」


「救恤調整室と、保安監督室の連名です」


「軍の警備配置は」


「現地で調整されています」


「誰が」


「それを確認するためにも、現場へ移送する必要があります」


 答えている。


 だが、答えになっていない。


 カミラが、俺の胸元へ額を寄せたまま、小さく言った。


「大尉は、全部を知っているわけではない」


「ああ」


「正規軍だ。だが、渡された命令へ穴がある」


「出るか」


「まだだ」


 カミラの声は低い。


 焦っていない。


 広場。


 兵士。


 書記官。


 救恤を受けに来た人々。


 誰が、どこまで知っているか。


 それを見ている。


「大尉が止めれば、まだ剣は要らない」


「止めなければ」


「その時は考える」


 俺は、棚板の隙間から外を見た。


 フォーゲル大尉は、命令書を持ったまま動いていない。


 疑っている。


 だが、帝国軍人でもある。


 正式な命令を受け取り、部下を率いてここまで来た。現場で一方的に破棄すれば、自分の判断だけで命令系統を止めることになる。


 簡単ではない。


 本当に。



 ──第四十一部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ