第四十一部 鷲の制服と、俺の名前で集められた人々の話 ① 鷲の制服と、フォーゲル大尉
倉庫の外で馬の蹄が止まり、整った足音が広場へ入ってきた時、最初に動いたのはカミラだった。
窓の隙間から外を確かめていた彼女は、机の上へ広げられていた移送札を素早くまとめると、俺へ説明するより先に、倉庫の奥へ置かれた古い棚の裏を指差した。
「入れ」
「二人で?」
「ほかに隠れる場所があるなら、三秒以内に言え」
見渡してみる。
古い荷物倉庫の中には、毛布を積んだ木箱、救恤所で使う空の紙箱、割れた椅子、縄、使われなくなった荷車の車輪が置かれていた。裏口へ戻れば外から見える。梁へ上がれば、傷んだ肩を使う必要がある。棚の裏にある狭い隙間だけが、紙束を抱えたまま身を隠せる場所だった。
「非常に合理的だ」
「早くしろ」
先に入ったカミラの後ろへ続き、棚と石壁の間へ体を滑り込ませる。
狭い。
思っていたより、かなり狭い。
俺が背中を壁へ付けると、カミラは正面から体を重ねるような姿勢になった。左肩を痛めているため、不自然に捻ることもできない。頭巾の下から覗く短い黒髪が顎へ触れ、薬草、汗、洗った布の匂いが近くなる。
胸元も近い。
近いというより、ほとんど当たっている。
外には正式な帝国兵が十二人ほどいる。俺の革袋には五束の紙があり、机の上には旧五国出身者を集めるための名簿と、今夜動かされる予定の移送札が残っている。見つかれば、面倒な事情では済まない。
それでも、人間の頭は一つのことだけを考えるようにはできていない。
帝国軍の封鎖。
旧籍照合。
青い細線。
俺の名前を使って集められた人々。
そして、胸元。
どれも、現在の状況を正確に把握するためには重要である。
「心臓が速い」
カミラが、ほとんど息だけで言った。
「緊張している」
「外の兵士に対してか」
「主に」
「今、視線が下がった」
「退路を確認している」
「私の胸元に退路はない」
「まだ断定はできない」
カミラの右手が、俺の脇腹へゆっくり回った。
殴ることも、肘を入れることもできない。物音を立てれば外に聞こえる。
だから彼女は、昨日までに痛めた場所を正確に探し当て、指先で少しずつ力を加えた。
非常に痛い。
だが、声は出せない。
「反省したか」
カミラが小さく訊いた。
「かなり」
「視線は」
「退路から撤収した」
「遅い」
再会してから何度も聞いた言葉だった。
外では、兵士の声が響いている。
「北方軍保安監督室、直属護送班だ。第三宿駅を一時封鎖する。宿駅長、救恤所責任者、書記官は広場へ出ろ。旅人と救恤対象者は、その場を動くな」
低く、よく通る声だった。
命令に慣れている。
無駄に怒鳴らない。
それでも、逆らう余地を残さない。
棚板の隙間から外を見ると、広場へ入ってきた兵士たちは二列に分かれ、一方は街道側の出口を押さえ、もう一方は救恤所の机と診療天幕の間へ立った。
鎧は揃っている。外套にはグランデル帝国の鷲が縫い取られ、槍の穂先も、腰の剣も、泥に汚れた靴も手入れされている。黒い外套で顔を隠し、火壺を投げた男たちとは違う。
正規の帝国軍である。
だからこそ、厄介だった。
◇
広場の中央へ、宿駅長が出てきた。
少し前まで救恤所の帳面を確かめていた男である。太い眉の下にある目は警戒していたが、逃げようとはしなかった。
「第三宿駅長、オットー・ベルナーだ」
「責任者は、あんたか」
兵士たちの先頭に立っていた男が訊いた。
四十代半ばほどだろう。背は高くないが、肩幅が広い。兜は被っておらず、短く刈った灰色の髪と、額の古い傷が見えている。装飾の多い鎧ではない。剣の柄も擦れている。現場へ出ることが多い人間なのだと思う。
「北方軍保安監督室付き、護送隊長だ」
男は、自分の名を告げた。
「エルンスト・フォーゲル大尉。命令に基づき、旧北路周辺で発生した偽造札事件、灰鐘関所の放火事件、公文書持ち出し事件を調べる。関係書類と責任者を引き渡してもらう」
「書類は、何の書類だ」
宿駅長が訊く。
「旧籍照合記録、仮身元証明書、移送札、救恤対象者名簿。それから、灰鐘関所を抜けた傭兵ロド・カナリが持ち込んだ木箱の中身だ」
俺は、棚の裏で少しだけ眉を寄せた。
俺の名前が、正式な帝国軍の口から出た。
紙の上だけではない。
兵士が動くための言葉として。
帝国の制服を着た人間が、俺の偽名を読み上げている。
カミラも、わずかに息を止めた。
「ロド・カナリは、もう西へ行った」
宿駅長が答えた。
「木箱は、旧籍照合班へ渡した。中身は、印章と封蝋と未記入の札だった」
「照合班の責任者は」
「救恤調整室から来た書記官だ。広場の奥にいる」
宿駅長が視線を向ける。
救恤所の受付机の近くで、灰色の外套を着た男が二人立っていた。
一人は、青い細線を引いていた書記官だった。年齢は三十代後半ほど。薄い唇。細い目。髪はきちんと撫でつけられ、書記官の服も汚れていない。
もう一人は、少し若い。机の上へ積まれた紙束を両手で抱えている。
麦粥を配っていた老女も、診療天幕の医者も、毛布を運んでいた人足も、その二人から少し距離を取っていた。
同じ救恤所で働いていても、最初から一つではなかった。
「照合班、前へ」
フォーゲル大尉が命じた。
細い目の書記官が、ゆっくり広場の中央へ進む。
「北方救恤調整室、臨時照合官のマルク・ゼーフェルトです」
「命令書を」
「こちらに」
ゼーフェルトは、内ポケットから折り畳んだ紙を出した。
フォーゲル大尉は受け取り、内容を読み始める。
棚の隙間から見える範囲でも、紙へ帝国の鷲が押されていることは分かった。封蝋。署名。正式な形式。灰鐘関所で見たものと同じである。
「旧五国連合域に出生、居住、親族関係を持つ者については、本人確認を優先し、旧北路第七集積所へ移送する」
フォーゲル大尉が読み上げる。
広場へ並んでいた人々の間で、低いざわめきが起きた。
「移送?」
女の声がした。
「薬をもらえるだけじゃなかったのか」
「子どもが熱を出している。どこへ連れていくんだ」
「家族と一緒なのか」
声は少しずつ増えていく。
昨日から歩き、麦粥と薬を求めて第三宿駅へ来た人々である。移送されるために並んでいたわけではない。
フォーゲル大尉は、命令書から顔を上げた。
「救恤所へ来た全員を移送するのか」
「いいえ」
ゼーフェルトは落ち着いた声で答えた。
「旧籍照合済みの者だけです。身元確認と保護を目的とした一時移送です。今夜、第七集積所へ移し、そこから就労斡旋、仮住居、身元証明書の再発行を進めます」
「本人へ説明したのか」
「受付で、必要事項は伝えています」
俺は、少し前に見た母親を思い出した。
子どもが熱を出している。
薬が欲しい。
麦粥が欲しい。
寝床が欲しい。
名前を書けば助けてもらえる。
そう聞いた。
旧北路第七集積所へ移されるとは、聞いていない。
説明したという言葉と、理解して同意したという事実は、同じではない。
「大尉」
ゼーフェルトは続けた。
「灰鐘関所で放火事件が起きました。偽造札も見つかっています。旧籍照合を済ませた人々を、この宿駅へ留め続ければ危険です。帝国の保護下へ移す必要があります」
言葉だけを聞けば、間違っていないように見える。
安全。
保護。
身元確認。
就労斡旋。
仮住居。
必要とされる言葉を、必要な順番へ並べている。
紙へ書かれた帝国の鷲と、正式な制服が、その言葉へ重さを与えている。
「大尉」
もう一人の兵士が、低い声で言った。
フォーゲル大尉の隣へ立っている。三十代ほどの曹長らしい。
「移送先の第七集積所は、北方軍の通常施設一覧へありません」
広場の空気が、少しだけ変わった。
ゼーフェルトは、表情を変えなかった。
「臨時施設です」
「設置命令は」
「救恤調整室と、保安監督室の連名です」
「軍の警備配置は」
「現地で調整されています」
「誰が」
「それを確認するためにも、現場へ移送する必要があります」
答えている。
だが、答えになっていない。
カミラが、俺の胸元へ額を寄せたまま、小さく言った。
「大尉は、全部を知っているわけではない」
「ああ」
「正規軍だ。だが、渡された命令へ穴がある」
「出るか」
「まだだ」
カミラの声は低い。
焦っていない。
広場。
兵士。
書記官。
救恤を受けに来た人々。
誰が、どこまで知っているか。
それを見ている。
「大尉が止めれば、まだ剣は要らない」
「止めなければ」
「その時は考える」
俺は、棚板の隙間から外を見た。
フォーゲル大尉は、命令書を持ったまま動いていない。
疑っている。
だが、帝国軍人でもある。
正式な命令を受け取り、部下を率いてここまで来た。現場で一方的に破棄すれば、自分の判断だけで命令系統を止めることになる。
簡単ではない。
本当に。
──第四十一部 了




