第四十部 第三宿駅と、救恤所で家族の名前を書かせる話 ③ 第三宿駅、裏口から
第三宿駅が見えてきたのは、昼を過ぎた頃だった。
灰鐘関所よりは小さい。
街道の両側には宿屋、食堂、馬小屋、鍛冶場、薬問屋、巡察詰所が並び、その奥には普段なら荷物の積み替えに使われる広場がある。
今日、その広場には長い列ができていた。
麦粥を配る大鍋。
湯を沸かす炉。
診療用の簡素な天幕。
毛布を積んだ荷車。
名簿へ名前を書くための机。
働いている人間の多くは、地元の住民と、宿駅の役人と、商人組合から出された手伝いらしい。
大鍋の前では、小柄な老女が木匙を動かし続けている。
「子どもを先にしな。大人は、そのあとだよ」
怒鳴り声は強い。
だが、椀へ入れる量は子どもの方が少し多い。
診療天幕では、年配の医者が熱を測り、若い助手が薬包へ名前を書いている。馬小屋の脇では、宿駅の主人らしい男が毛布を数え、足りない分を別の宿から借りようとしていた。
全部が嘘ではない。
麦粥は本物である。
薬も本物である。
毛布も、寝床も、本当に必要とされている。
だからこそ、見分けにくい。
広場の端には、名前を書く机が六つ並んでいた。
最初の三つは、救恤を受けるための基本受付らしい。
名前。
年齢。
現在の居住地。
必要な支援。
家族の人数。
薬が必要か。
寝床が必要か。
そこまでなら、理解できる。
問題は、その先だった。
基本受付を終えた人間のうち、一部だけが奥の机へ誘導されている。
机の上には別の紙。
旧居住地。
旧村名。
父母の名前。
祖父母の名前。
兄弟姉妹。
婚姻。
移住先。
現在の所在。
家に残っている古い札や印。
戦争前の記録。
救恤を受けるためには、明らかに多すぎる。
さらに、奥の机で書類を受け取る書記官は、確認を終えた紙の端へ、ごく細い青線を一本引いていた。
黒松林で見たものと同じ。
灰鐘関所で見たものと同じ。
ヴィクトルの青いインクとは違う。
人を識別するための青い細線。
「混ざっている」
俺が言うと、カミラは小さく頷いた。
「正規の救恤へ、別の受付を足している」
「全員が知っている?」
「分からない。麦粥を配る女も、診療天幕の医者も、宿駅の主人も、本当に困っている人間を助けようとしているように見える」
「奥の書記官は」
「少なくとも、青い細線の意味を知っている可能性がある」
カミラは列全体を見渡した。
声を荒らげれば、混乱が起きる。
救恤そのものを止めれば、薬を必要としている子どもまで困る。
全部を疑えば、善意で働いている人間まで敵へ回す。
制度へ寄生する相手は、そこまで計算している。
「どうする」
俺が訊く。
「先に、宿駅長へ話を聞く」
「正面から?」
「ああ」
「ミラ・パウルとして?」
「今のところは」
「非常に便利な記録係だな」
「護衛も、少しは役に立て」
「肩が痛い」
「歩けるだろ」
「痛い人間への配慮が足りない」
カミラは、俺の額にあるこぶ、焦げた眉、頬へ残る煤を順番に見た。
「その顔なら、傭兵としての説得力は十分だ」
「褒めている?」
「全く」
正確だった。
◇
宿駅長は、広場の奥にある小さな事務室で帳面を確かめていた。
四十代後半ほどの男で、太い眉と、日に焼けた顔をしている。机の上には支援物資の受領書、診療天幕から届いた薬の残量、宿屋ごとの空き寝台、商人組合から借りた毛布の数が、乱雑ながらも種類ごとに分けられていた。
「灰鐘関所から来た」
カミラが言う。
宿駅長は、俺たちを見た。
「何の用だ」
「昨日、小さな木箱を持った傭兵が来たはずだ」
「ロド・カナリ?」
俺は、少しだけ眉を上げた。
「知っている?」
「救恤所の臨時便だろ。北方の連絡所から書類を持ってきた。通行札も、受領書も整っていた」
「木箱は」
「奥の受付へ渡した」
「中身は」
「知らん。宿駅の仕事は、場所、湯、食料、寝床を用意することだ。身元証明書の再発行と旧籍照合は、北方救恤調整室から派遣された書記官が担当している」
宿駅長は、少し苛立った顔で帳面を閉じた。
「困っている人間がいる。冬を越したあとで、薬も麦も足りない。焼けた村から流れてきた者もいる。仕事を失った者もいる。救恤所を開けと言われた時は、助かると思った」
「今は?」
カミラが訊く。
「余計な紙が多すぎる」
宿駅長は低い声で答えた。
「飯を食わせるのに、死んだ祖父の名前まで訊く必要があるのか。俺も何度か言った。だが、北方救恤調整室の正式な命令だと言われた」
「命令書は」
「ある」
机の引き出しから、一枚の紙を出す。
帝国の鷲。
封蝋。
署名。
形式は整っている。
「この署名を知っているか」
カミラが訊く。
「知らん。北方軍保安監督室と、救恤調整室の連名だ」
帝国の制度。
正規の救恤。
正規の命令。
その中へ、細い青線が混ざっている。
「昨日来たロド・カナリは、どこへ行った」
「木箱を渡したあと、西へ向かった。旧北路第四宿駅へ行くと言っていた」
「顔は」
「若い男。三十前後。背は、お前より少し低い。黒い髪。左の頬に傷があった」
俺とは違う。
だが、札の上では俺になる。
「奥の受付を見せろ」
カミラが言うと、宿駅長は目を細めた。
「お前は何者だ」
「鉱山の記録係だ」
「それだけではないだろ」
カミラは、少しだけ黙った。
「困っている人間へ麦粥を配ることと、家族の名前を全部書かせることは別だ。あんたも、そう思っている」
「ああ」
「止めたいか」
宿駅長は、窓の外を見た。
大鍋。
並ぶ家族。
診療天幕。
薬を待つ子ども。
帳面へ名前を書く老人。
「飯と薬は、止めたくない」
「私もだ」
カミラは言った。
「だから、混ぜるな。救恤は続けろ。旧籍照合だけを止める」
宿駅長は、しばらく考えたあと、机の下から鍵を出した。
「裏口から回れ。奥の受付は、古い荷物倉庫を使っている」
──第四十部 了




