第四十部 第三宿駅と、救恤所で家族の名前を書かせる話 ② 街道の下りと、母親の頷き
灰鐘関所を出たあと、街道は緩やかな下り坂になった。
第三宿駅までは、急がなくても半日ほどで着く。関所を越えたとはいえ、まだ旧五国連合の領域ではない。道端へ並ぶ里程標には変わらず帝国の鷲が刻まれ、畑を囲う石垣も、低い屋根の家々も、東側で見てきた景色と大きくは変わらなかった。
ただし、街道を歩く人間の数は増えていた。
西へ向かう荷車。
背負い袋を抱えた老人。
小さな子どもの手を引く母親。
毛布を丸めて背負った男。
鍋、木匙、着替え、わずかな食料を荷台へ積んだ家族。
商人の旅装ではない。
長く旅を続ける準備でもない。
今日、明日を越えるために必要な物だけを持ち、どこかへ向かっている人々だった。
「増えたな」
俺が言うと、カミラも街道の先へ目を向けた。
「第三宿駅の臨時救恤所へ向かっている可能性が高い」
「救恤所そのものは、珍しくない?」
「ああ。冬を越した直後は、食料と薬が不足しやすい。火災、街道封鎖、失業、流行病で生活を崩した者へ、一時的に麦粥、薬、寝床を提供することもある」
カミラは、前を歩く家族を見た。
「だが、対象を旧五国出身者へ寄せる理由はない」
「困っている人間を助けるなら、今どこに住み、何が必要かを見ればいい」
「そうだ。生まれた村、昔の家族、亡くなった親族、旧居住地の名まで書かせる必要はない」
救恤所。
薬。
麦。
宿泊。
春先に困窮した人々へ差し出されるものとしては、不自然ではない。
だからこそ、悪質だった。
誰かが、現実に必要とされている救いへ手を差し入れ、その下へ別の目的を隠している。
困っている人間は、紙を細かく読む余裕がない。
子どもが熱を出していれば、薬を求める。
食料が尽きていれば、麦粥を求める。
夜を越せる場所がなければ、寝床を求める。
そこへ、昔の村と、家族の名前と、親族の所在を書けと言われる。
書けば助けてもらえると思えば、書く。
「紙を燃やすだけではないんだな」
俺は言った。
「人を助ける紙も、使う」
「ああ」
カミラは低い声で答えた。
「制度を壊すより、制度へ寄生した方が効率がいい。正規の救恤へ、少しだけ余計な質問を混ぜる。正規の通行札へ、細い青線を一本足す。正規の命令へ、焼却という一文を入れる。それだけで、善意を持つ人間まで使える」
「ユストみたいに」
「ああ」
街道の先で、小さな女の子が石へ躓いた。
母親は、背負っていた荷袋を片手で支えながら、慌てて子どもの腕を取る。女の子は転ばずに済んだが、足が痛かったのか、唇を噛んで泣くのを我慢していた。
俺は、少し早足で追いついた。
「荷物を持つ」
母親が警戒した顔でこちらを見る。
当然だった。
額にはこぶ。
眉は少し焦げている。
頬には煤の跡。
腰には剣。
かなり怪しい。
「金は取らない」
俺が言うと、母親の警戒は少し強くなった。
「普段は取るが、今日は取らない。同行者から、善意もたまには見せろと言われている」
「言っていない」
後ろからカミラの声が飛ぶ。
「では、俺の自主的な善意だ。非常に珍しいので、今のうちに使った方がいい」
母親は、少し迷ったあと、背負っていた袋を一つ差し出した。
思ったより重い。
中には着替えだけでなく、鍋、乾燥豆、小さな薪、毛布まで入っているらしい。
「第三宿駅まで?」
「ああ。子どもが熱を出している。薬があると聞いた」
女の子の額へ手を当てる。
少し熱い。
ただし、歩けないほどではない。
「いつから」
「昨日の夜から」
「食事は」
「少しだけ」
「水は飲めている?」
「飲ませている」
自分でも、ずいぶん自然に訊けるようになったと思う。
ニーナ。
マリノ。
ヴェロニカ。
セラ。
各地で散々止められ、聞かれ、寝台へ戻されてきた。
医療の専門家ではない。
だが、倒れる前に確かめる順番くらいは、少しずつ体へ染み込んでいる。
「急がせるな。熱が上がる」
俺が言うと、母親は頷いた。
「救恤所へ着けば、名前を書けば薬をもらえるそうだ」
「何を書く」
「今の住所と、生まれた村。それから、父と母の名前。昔の家族がどこへ移ったかも、分かる範囲で書けば、身元証を再発行してくれるらしい」
カミラの表情が、少しだけ硬くなった。
「誰に聞いた」
「昨日、宿場で紙を配っていた人だよ。帝国の印もあった」
母親は、外套の内側から折り畳んだ紙を取り出した。
臨時救恤所。
第三宿駅。
春季支援。
麦粥。
医薬品。
一夜分の寝床。
火災、冬害、街道封鎖により生活基盤を失った者を対象とする。
そこまでは、おかしくない。
問題は、下へ付け足された小さな文字だった。
旧五国連合域に出生、居住、親族関係を持つ者は、旧居住地、家族構成、親族名、移転先を記入すること。確認済みの者には、優先的に身元証明書を再発行する。
「必要以上に集めている」
カミラが低い声で言った。
「救恤へ必要なのは、今の状態と、最低限の本人確認だ。親族の移転先まで書かせる理由はない」
「書かない方がいい?」
母親の顔に不安が浮かぶ。
薬が欲しい。
子どもを休ませたい。
だが、何かおかしいと言われても、ほかに頼れる場所があるわけではない。
カミラは、すぐに紙を奪おうとはしなかった。
「今は、救恤所まで一緒に行く。薬は受け取れ。ただし、書く前に私たちへ見せろ」
「でも」
「子どもの薬と、昔の家族の名前は別だ。混ぜる必要はない」
声は低い。
だが、母親にも分かるように、ゆっくり話している。
「助けてもらうために、全部渡す必要はない」
母親は、少し迷ったあと頷いた。
──第四十部 了




