第四十部 第三宿駅と、救恤所で家族の名前を書かせる話 ① 灰鐘関所の朝と、旅仕度
翌朝、灰鐘関所の門が開くより少し前に目を覚ますと、寝台の上には昨夜まで煙の中にいたとは思えないほど静かな光が差し込んでいた。
夜勤を終えた書記官が廊下を歩く音、交代する兵士が短く挨拶を交わす声、関所の外で出発を待つ荷車の車輪が石を踏む音が、厚い壁を隔てて重なっている。窓から入る風には、消火したあとの湿った灰と濡れた紙の匂いがまだ微かに残っていた。
体を起こすと、左肩へ鈍い痛みが走った。
昨日、古い扉へ体当たりした時に使ったのは右肩だったが、煙の中でユストを押さえ込んだ際には、治りきっていない左肩にも余計な力が入ったらしい。黒松林を抜けた時より悪くなったわけではないものの、無視して歩けば夕方には後悔する程度の重さが残っている。
以前なら、それでも歩けると言って宿を出ただろう。
今も、できればそうしたい。
第三宿駅では、俺の名前を使った何者かが小さな木箱を受け取り、旧五国出身者を対象とした臨時救恤の準備を進めている。写しを増やすために灰鐘関所で一晩使った以上、急ぎたいという気持ちはある。
ただし、急ぐことと、倒れることは違う。
港町で散々言われた。
黒松林でも言われた。
昨日はカミラにも言われた。
努力ではなく、守れ。
何度も同じことを言われるのは、俺に同じ失敗を繰り返した実績があるからである。
非常に不本意だが、かなり正確だった。
隣の寝台を見ると、カミラはすでに起きていた。
窓際の椅子へ腰掛け、昨夜巻き直した包帯の端を確かめている。短い黒髪にはまだ少し水気が残り、洗ったばかりらしい首筋には朝の光が落ちていた。
左肩を動かしにくいため、外套の下へ着ける革帯を右手だけで留めようとしている。
一度目は、金具が穴へ入らない。
二度目は、少し位置がずれる。
三度目も、うまくいかない。
カミラは無言のまま革帯を見つめていたが、視線だけで金具が勝手に動くわけではない。
「手伝おうか」
俺が声を掛けると、カミラは顔を上げた。
「自分でできる」
「三回失敗した」
「見ていたのか」
「同行者の状態を確認するのは、護衛として当然だ」
「起きて最初に見る場所が、そこなのか」
「偶然だ。目を開けた正面にいた」
嘘ではない。
ただし、革帯を留めるために少し持ち上げられた下衣の隙間から、脇腹の白い肌が覗いていることまで、護衛として確認する必要があるかと問われれば、意見が分かれるかもしれない。
俺としては、十分な安全確認だと思う。
主に俺の精神衛生にとって。
「顔が最低だ」
カミラが低い声で言った。
「何も言っていない」
「言わなくても分かる」
「監察官は、人の内心まで証拠なしで断定するのか」
「これまでの実績が証拠だ」
正確だった。
カミラはしばらく俺を見たあと、諦めたように革帯を差し出した。
「金具だけ見ろ」
「信用がないな」
「昨日も同じことを言った」
「昨日から少し成長した可能性がある」
「その顔で言うな」
俺はカミラの背後へ回り、革帯を受け取った。
洗った髪から、薬草と石鹸の匂いがする。下衣の布地は肩の包帯を避けるため少し緩められ、背中から脇腹へかけて、肌がいつもより広く見えていた。
金具を留める。
それだけでいい。
本当に。
それだけでいい。
ただし、人間の目は一つの場所だけを見るために作られていない。
視界の端へ入るものを完全に排除することは難しい。
「遅い」
カミラが言った。
「革帯の位置を調整している」
「手は止まっている」
「傷へ当たらない角度を考えている」
「視線も止まっている」
「安全確認だ」
「何の安全だ」
難しい質問だった。
答えを考えている間に、カミラの右肘が俺の脇腹へ入った。
「痛い」
「早くしろ」
「煙を吸った負傷者に対する扱いではない」
「あんたの視力は、むしろ良くなっている」
俺は、今度こそ金具だけを見て革帯を留めた。
護衛としての役割を果たした。
主に。
◇
出発の準備を終えた頃、休憩室の扉が二度叩かれた。
「入ってください」
カミラが答える。
扉の向こうに立っていたのは、灰鐘関所の副書記官ヘルマンだった。
昨日からほとんど眠っていないのだろう。目の下には深い隈が残り、灰色の髪も少し乱れている。それでも制服は整えられ、右手には封蝋を切った命令書が二枚、左手には布へ包まれた小さな紙束が握られていた。
俺の顔、カミラ、留め直したばかりの革帯、俺の脇腹を順番に見たあと、ヘルマン副書記官は何も訊かずに机へ紙を置いた。
非常に大人だった。
「昨夜の記録は、三つに分けました」
ヘルマン副書記官は言った。
「一通は、ヴァルター軍監の連絡所へ。もう一通は、東側の宿駅を経由して別の保管所へ。残りは、この関所の中で二か所に分けています。伝令も、同じ道へまとめてはいません」
「燃え残った紙は」
カミラが訊く。
「読める部分だけを写し、読めなかった箇所もそのまま記録しました。ユスト本人にも、昨夜の証言を書かせています。立会人は、私と北方軍の伍長です」
「ユストは」
「拘束しています。ただし、保安監督室へはまだ送っていません」
ヘルマン副書記官は、一度言葉を切った。
「誰が信用できるか、分からなくなりました」
重い声だった。
帝国の関所で長く働き、決められた手順に従い、書類の整合を確かめてきた人間である。紙へ押された鷲の印と、決裁者の署名と、封蝋の形を信用しなければ、日々の業務など成り立たない。
それでも今は、同じ帝国の鷲を押した二枚の命令が、互いに矛盾している。
保全しろ。
燃やせ。
どちらも帝国の名で届いた。
「送らない判断は正しい」
カミラは言った。
「ユストが犯罪へ加担したことは変わらない。だが、誰が引き取りに来るかを見る価値はある。相手が焦れば、正規の命令という形で手を伸ばしてくる可能性がある」
「すでに来ています」
ヘルマン副書記官は、机へ置いた二枚の命令書のうち、一枚をこちらへ寄せた。
北方軍保安監督室。
灰鐘関所における放火および公文書毀損の容疑者ユスト・ハーゲンを、速やかに監督室直属の護送班へ引き渡すこと。
同時に、現場で押収した紙片、記録、黒松脂、木片、証言書の原本も、すべて護送班へ移管すること。
形式は整っている。
封蝋もある。
帝国の鷲も押されている。
「到着予定は」
カミラが訊いた。
「昼前です」
「早すぎる」
「ああ」
ヘルマン副書記官は頷いた。
「昨夜、火が出たことを監督室へ正式に報告したのは、夜半を過ぎてからです。通常の連絡経路であれば、今朝のうちに引き取り命令が届くこと自体がおかしい」
「火が出る前から、準備されていた可能性がある」
「私も、そう考えています」
カミラは命令書へ顔を近づけ、紙質、印、署名、封蝋を順番に確かめた。
「命令そのものが偽物とは限らない」
「本物の権限で、先回りしている可能性もある?」
俺が訊くと、カミラは頷いた。
「帝国の制度へ外から穴を開けるだけでは、ここまで速く動けない。内部に、正規の命令を出せる人間がいる」
地下網。
青い細線。
円の中の目。
偽のロド・カナリ。
それとは別に、帝国の組織そのものを使って手を伸ばしてくる人間がいる。
敵は、一枚ではない。
帝国も、一枚ではない。
「もう一枚は」
俺が訊く。
ヘルマン副書記官は、机に残っていた命令書を差し出した。
こちらも北方軍の正式な形式だった。
イタリカ監察局から通報のあった公文書持ち出し事件について、逃亡中の監察官カミラ・パヴェルおよび協力者を発見した場合、保護拘束し、所持書類を封印した上で最寄りの北方軍施設へ移送すること。
文面には、黒髪、二十代後半の女、左肩を負傷している可能性があると記載されていた。
「随分、具体的だな」
俺が言うと、カミラは表情を変えなかった。
「ノヴァローマから正式に手配されたなら、おかしくはない」
「捕まる?」
「保護拘束と書いてある」
「便利な言葉だな」
「ああ。保護したあと、どこへ送られるかは別の話だ」
ヘルマン副書記官は、カミラの顔を見た。
頭巾を被っていない。
短い黒髪。
左肩の負傷。
条件は一致する。
だが、彼はすぐには何も言わなかった。
「私は、ミラ・パウルという鉱山の記録係と、ロド・カナリという傭兵に協力を求めました」
やがて、静かに言った。
「昨日の放火で失われかけた記録を守り、黒松林で御者を救った旅人です。それ以上の身元については、まだ確認していません」
「確認しなくていいのか」
俺が訊くと、ヘルマン副書記官は少しだけ疲れた顔で笑った。
「確認すれば、書かなければならない。今の私は、書いた紙を誰へ渡せばよいか、まだ判断できません」
紙を残すために働いてきた男が、書かないことで人を守ろうとしている。
昨日、カミラが言っていた。
今は、知らない方が守れる名前もある。
矛盾しているようで、矛盾していない。
「昼前までに出た方がいい」
ヘルマン副書記官は言った。
「第三宿駅へ向かうのでしょう」
「ああ」
カミラが答える。
「ただし、あなたたちが出たあと、私は何も知らない」
「それでいい」
カミラは頭巾を被り直した。
「ユストを簡単に渡すな。命令書の原本も、一か所へまとめるな。護送班が来たら、誰が来たか、何人いたか、どの命令を出したか、全部残せ」
「分かっています」
「それから」
カミラは少しだけ間を置いた。
「無理をするな」
ヘルマン副書記官は、ほんの少しだけ目を細めた。
「それは、あなたが言う言葉ですか」
俺は思わず笑った。
「最近、よく言われるらしい」
「余計なことを言うな」
カミラの右足が、俺の靴を踏んだ。
「痛い」
政治と制度が揺らいでいる時でも、俺の足はかなり正確に踏まれる。
悪くない。
──第四十部 了




