第三十九部 燃やしたかった記録と、本人より先に人を集める名前の話 ① 保安照合室の火と、封鎖
保安照合室の中へ入った瞬間、黒松脂の匂いが喉の奥まで入り込んだ。
黒松林で嗅いだものと同じ匂いだったが、狭い室内へ閉じ込められた煙は森の中よりはるかに濃い。壁際に置かれた火鉢から赤い火が立ち上がり、その周囲へ積まれた紙束の端を少しずつ舐めている。火鉢の脇には黒松脂を含ませた布まで置かれていた。偶然火が移ったのではない。燃やす順番まで考えた上で、必要な記録だけを短時間で消すために準備された火だった。
ユストと呼ばれた書記官は、その炎の前で紙束を抱えていた。
年齢は三十歳を少し越えた程度だろう。灰色の書記服は煤で汚れ、額には汗が浮かび、細い指には長年使ってきたインクが染み込んでいる。剣を握る人間の手ではない。火を扱うことにも慣れていないらしく、黒松脂の小瓶を持った左手は小さく震えていた。
それでも、俺たちの姿を見ると、右手に持った紙束を火鉢へ投げ込もうとした。
「やめろ!」
俺は外套を外し、廊下で運ばれていた水桶へ一度浸してから、燃えかけた紙束へ投げた。
濡れた布が紙を覆い、火鉢の縁へぶつかる。火の粉が少し舞ったが、紙束そのものは炎の中へ落ちなかった。
ユストは、喉の奥から声にならない息を漏らした。
「離せ」
掠れた声だった。
「燃やさないと、駄目なんだ」
「誰に言われた」
「燃やさないと」
同じ言葉を繰り返しながら、ユストは濡れた外套へ手を伸ばした。
俺は右手でその手首を掴み、火鉢から離すように引いた。左肩へ力を入れずに済ませたかったが、ユストは見た目以上に必死だった。体を捻って振りほどこうとするため、支えに使った右膝へも負担が掛かる。
それでも、剣を抜く必要はない。
黒松林で老人を焼こうとした男は、火壺を投げる直前だった。止めるためには斬るしかなかった。
だが、目の前にいる書記官は違う。火を付けた責任はある。記録を消そうとした罪もある。それでも、剣も短剣も持たず、恐怖に追い立てられたまま紙へ手を伸ばしている。
斬るべき相手と、生かして話を聞くべき相手を間違えてはいけない。
「砂を持ってこい。黒松脂へ水だけを掛けるな。濡らした毛布で火元を覆え」
背後から、カミラの低い声が飛んだ。
左肩を傷つけたままでも、声には迷いがない。廊下へ集まっていた兵士と書記官たちは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに動き始めた。
兵士の一人が砂箱を運び、別の一人が厚い毛布を水へ浸す。ヘルマン副書記官は、燃えていない棚から記録束を外へ出すよう命じながら、誰がどの棚へ触れたのかを若い書記官へ記録させていた。
「持ち出した束は、廊下の左右へ分けろ。同じ場所へ積むな。濡れた物と乾いた物も別にしろ」
カミラが言う。
「誰が運んだか、今からでも名前を残せ。火が消えたあとで分からなくなれば、燃やされたのと同じだ」
追われている逃亡者の声ではなかった。
紙を守るために役所の中へ踏み込み、誰が何を触り、どこへ動かしたかを一つずつ残してきた監察官の声だった。
兵士たちも、その声に従った。
濡れた毛布が火鉢を覆い、砂が黒松脂の布へ掛けられる。赤い炎は少しずつ小さくなり、室内には煙と湿った灰の匂いが残った。
ユストは、俺に手首を掴まれたまま咳き込んでいた。
「もう燃やせない」
俺が言うと、ユストは顔を歪めた。
「分かっていない。燃やさなければ、全部出る」
「何が出る」
「名前だ」
その一言だけは、はっきりしていた。
◇
火が消えたあと、保安照合室は封鎖された。
ヘルマン副書記官は、室内へ入る人間を最小限に絞り、持ち出した記録束、燃えた紙、濡れた紙、黒松脂の小瓶、火鉢の位置を一つずつ書き留めさせた。ユストは両手を縛られたが、兵士へ殴られることも、廊下へ引きずり出されることもなかった。
最初に拳を振り上げた若い兵士を、カミラが止めたからである。
「殴れば、恐怖で記憶の順番が崩れる」
カミラはユストを庇うような口調では言わなかった。
「罪があるかどうかは、話を聞いたあとで決める。今は、誰が何を命じ、どの紙を燃やそうとしたのかを残せ」
若い兵士は納得できない顔をしていたが、ヘルマン副書記官が静かに頷くと拳を下ろした。
帝国の制服を着た人間が、帝国の書記官を守る。
同時に。
帝国の制服を着た人間が、帝国の書記官を疑う。
簡単ではない。
本当に。
俺も廊下へ出ると、石壁へ背を預けた。
煙を少し吸ったせいで、喉が痛い。黒松林で受けた傷も、扉を壊した時の衝撃で少し熱を持っている。右膝も、さっきユストを押さえた時から妙に重い。
それでも、倒れるほどではない。
少なくとも、今のところは。
「座れ」
カミラが言った。
「まだ立てる」
「立てるかどうかを聞いていない。座れ」
「非常に厳しいな」
「扉へ肩を入れる必要はなかった」
「右肩を使った」
「左も痛めた顔をしている」
「顔で分かるのか」
「分かる」
港町の女将にも言われた。
監察官にも言われる。
俺の顔は、思っている以上に多くのことを喋るらしい。
仕方がないので、廊下の壁際へ置かれた木箱へ腰を下ろした。
カミラは俺の前へ立ち、頬へ付いた煤を濡れた布で拭った。乱暴ではない。ただし、優しくもない。必要な場所へ必要な強さで布を当てる。
「眉が少し焦げている」
「格好良くなった?」
「悪化した」
「元が良いから、多少の損失には耐えられる」
「自分で言うな」
カミラは、俺の額へ残っているこぶ、煤で黒くなった頬、焦げた眉、肩の動きを順番に確かめた。
少し身を屈める。
外套の襟元がわずかに開く。
視線を下げる。
非常に自然に。
傷の確認である。
主に。
「どこを見ている」
カミラが低い声で訊いた。
「煙で視界が悪い」
「廊下には、もう煙はほとんどない」
「後遺症かもしれない」
「なら、目も診てもらえ」
濡れた布が額へ押しつけられた。
「痛い」
「視力は残っているな」
帝国の制度が揺らぎ、記録が燃やされ、俺の名前が勝手に歩き回っている。
その中で、俺の額には新しい煤が増えた。
非常に均衡が取れている。
──第三十九部 了




