第三十八部 灰鐘関所と、本人より先に鐘を越えた名前の話 Another Side:南方戦線
南方戦線と、同じ傷を持つ二人の患者の話
王国、ブリエン、レヴォナ方面へ続く南方戦線では、夕方になっても負傷者の搬入が止まらなかった。
灰十字医療団の仮設病棟には、泥、血、薬草、煮沸した布の匂いが混ざっている。荷車が到着するたびに看護師と医療補助が患者を寝台へ運び、外科処置が必要な者、自力で歩ける者、夜を越えるために経過を見る者を順番に分けていた。
病棟の奥では、ヴェロニカが負傷兵の腕を縫っている。
「動かすな。糸が切れる」
「ですが、先生」
「喋るな。口ではなく腕を診ている」
低い命令調。迷いのない手つき。
イタリカ側で軍医として働いてきた女は、王国側の兵士を前にしても扱いを変えない。傷があれば洗い、必要なら縫い、無理をしようとすれば寝台へ戻す。
患者の所属より先に、傷を見る。
それが、ヴェロニカだった。
少し離れた机では、エルゼが移送札を一枚ずつ確認していた。
彼女の仕事は、剣を振るうことでも、傷を縫うことでもない。
名前。
年齢。
負傷した場所。
傷の種類。
移送元。
受入先。
薬の量。
誰が書き、誰が受け取り、何時に運ばれたか。
一つずつ残す。
記録を間違えれば、薬が届かない。
同じ名前を一つへまとめれば、別の患者が消える。
紙の上で人間を扱う仕事だからこそ、急いでいる時ほど丁寧に確かめなければならない。
その途中で、エルゼの手が止まった。
一枚目。
ヨハン・ベルク。
三十四歳。
右腕裂傷。
ブリエン東側救護所から移送。
二枚目。
ヨハン・ベルク。
三十四歳。
右腕裂傷。
レヴォナ北門仮設病棟から移送。
日付は同じ。
時刻も近い。
だが、距離がある。
同じ人間が、同じ日に、二つの場所から運ばれることはない。
「サンドルさん」
エルゼが呼ぶと、少し離れた寝台へ腰掛けていた男が顔を上げた。
サンドル。
便宜上の名前。
それでも、エルゼは最近、その男がただの家令ではないことへ少しずつ気づき始めている。
負傷している。
休むよう言われている。
それなのに、紙の動きが変だと聞けば、寝台の上でも帳面を読む。
真面目という言葉だけでは、少し足りない。
誰かを守ることへ慣れすぎている。
「同じ名前の患者が、同じ日に二つの場所から運ばれています」
エルゼは、二枚の紙を並べた。
リューリックは、すぐには紙へ触れなかった。
名前。
年齢。
傷。
移送元。
日付。
時刻。
押印。
書いた人間。
一つずつ目で追う。
「同姓同名の可能性は」
「あります。ただ、年齢も傷も同じです」
「顔貌記録は」
「片方だけです」
「書いた人間は」
「別です」
リューリックは、紙の端へ視線を移した。
そこには。
ごく細い。
青い線が引かれている。
「正規の記録線ではありません」
エルゼが言った。
「原本を分けて保管してください」
リューリックが答える。
「写しも一枚ではなく、複数へ」
「燃やされる可能性がありますか」
「まだ、断定はできません」
低い声。
慎重。
だが、迷いはない。
「分からないものは、分けて残します」
エルゼは頷いた。
「誰へ渡しますか」
「今は、誰にも」
その時。
処置台から、ヴェロニカの声が飛んだ。
「サンドル」
低い。
命令調。
患者が何を言っても、必要なら寝台へ戻す軍医の声だった。
「紙を読むのは勝手だが、先に横になれ。顔色が悪い」
「問題ありません」
「問題があるかは、私が決める」
「しかし」
「横になれ」
リューリックは、少しだけ黙った。
エルゼは、机の横へ置かれた椅子を見た。
「椅子を減らしましょうか」
「何を」
「座ったふりで仕事を続けるので。寝台だけにしておけば、少しは休めるかと思いまして」
明るい声。
だが、目は真面目だった。
リューリックは、ほんの少しだけ困った顔をした。
「エルゼさん」
「記録係ですので」
南方戦線でも。
名前が。
本人より先に。
動き始めていた。
──Another Side 了




