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第三十八部 灰鐘関所と、本人より先に鐘を越えた名前の話 ④ 本人より先に歩く名前、煙の中へ

「昨日のロド・カナリは、誰が確認した」

 カミラが訊いた。

 ヘルマン副書記官の視線が彼女へ移る。

「質問は、こちらから行います」

「顔を見たのか。札だけを見たのか。それによって話が変わる」

「あなたは」

「記録係だ」

 低い声。

 ただし、その奥で少しずつ監察官が戻っている。

「鉱山でも人を移送する。薬を運ぶ。名前を書く。紙の上で間違えれば、別の人間が死ぬこともある。顔貌記録、所持品、札の発行地、署名、担当者の押印、宿駅から届いた写し。少なくとも、それを照合しなければ、同名の別人なのか、札の複製なのか、転記ミスなのかも判断できないはずだ」

 ヘルマン副書記官は、しばらくカミラを見ていた。

 警戒。

 疑念。

 少しだけ。

 興味。

「関所の手順に詳しい」

「紙を扱う者なら、当然だ」

「当然ではない」

「なら、灰鐘関所では当然にしろ」

 強い。

 本当に。

 この女は、机の前へ座った瞬間、追われる逃亡者ではなく監察官へ戻る。

「公開できる範囲だけです」

 ヘルマン副書記官は、一枚の記録を机へ出した。

 昨日。

 通過。

 ロド・カナリ。

 二十八歳。

 傭兵。

 東から西。

 同行者なし。

 荷物。

 革袋。

 剣。

 小さな木箱。

 俺は木箱を持っていない。

 記録の下には、通過確認を担当した書記官の署名と押印がある。

 その横。

 紙の端。

 細い。

 青い線。

「青い細線」

 カミラが言った。

「通常の記録線ではない?」

 ヘルマン副書記官が訊く。

「少なくとも、イタリカ側の公的な照合印ではない。ヴィクトルの地下出版網が使う青いインクとも違う」

「知っているのか」

「記事は流れる」

 カミラは、自分が何者であるかを全部は出さない。

 まだ、順番がある。

「担当書記官は」

 カミラが訊いた。

「ユスト」

 ヘルマン副書記官は、署名へ目を落とした。

「どこにいる」

「今朝から姿が見えません」

 部屋の中へ、短い沈黙が落ちた。

 窓の外では、また鐘が鳴った。

 一度。

 荷車の重量。

 少し間を置いて。

 二度。

 別の旅人の書類照合。

 関所の日常は続いている。

 そのすぐ隣で、一人の書記官が消えている。

「偽のロド・カナリは」

 俺は言った。

「どこへ向かった」

「旧北路第三宿駅」

「灰鐘関所を越えて?」

「ああ」

「小さな木箱を持って?」

「記録上は」

 記録上。

 便利な言葉だった。

 紙の上では、俺は昨日ここへ来た。

 小さな木箱を持ち、鐘を越え、さらに西へ進んだ。

 本人より先に、名前だけが歩いている。



 ◇



 その時、薄い匂いが鼻へ入った。

 黒松脂。

 湿った灰。

 焦げる紙。

 俺とカミラは、ほとんど同時に顔を上げた。

「何だ」

 ヘルマン副書記官が言う。

「火だ」

 カミラが答えた。

 その直後。

 廊下の奥から、若い書記官の声が聞こえた。

「副書記官!」

 慌てている。

「保安照合室から煙が出ています!」

 ヘルマン副書記官が、椅子を蹴るように立ち上がった。

「鍵は」

「開きません。内側から掛かっています!」

「ユストは」

「分かりません!」

 廊下が動き始める。

 兵士。

 書記官。

 水桶。

 煙。

 声。

 俺も立つ。

 左肩へ、少し痛みが走る。

 黒松林で鉤槍を受けた傷は、まだ完全には治っていない。

 カミラは俺の肩を見た。

「無理に入るな」

「お前が言うのか」

「言う」

「五束は」

「持っているな」

「ああ」

「絶対に離すな」

「ああ」

 保安照合室の扉の下から、細い煙が流れている。

 黒い。

 鍵は開かない。

 ヘルマン副書記官が扉を叩いた。

「ユスト!」

 返事はない。

「下がれ」

 俺は言った。

 兵士がこちらを見る。

「蝶番が古い」

 扉の枠へ肩を入れる。

 一度。

 軋む。

 二度。

 金具が外れる。

 扉が奥へ倒れた。

 煙が一気に廊下へ流れ出す。

 喉へ刺さる。

 目が痛い。

 室内の奥。

 火鉢。

 棚。

 燃え始めた紙。

 黒松脂を含ませた布。

 そして。

 炎の前に、一人の男が立っていた。

 灰色の書記服。

 細い肩。

 短い髪。

 右手には燃えかけた紙束。

 左手には黒松脂の小瓶。

 若い書記官が、掠れた声で名前を呼んだ。

「ユスト」

 男が振り返る。

 怯えている。

 怒っている。

 泣きそうでもある。

 だが、次の瞬間。

 燃えかけた紙束を、火鉢へ投げ込もうとした。

「止めろ!」

 カミラの声が廊下へ響いた。

 俺は、煙の中へ踏み込んだ。



 ──第三十八部 了


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