第三十八部 灰鐘関所と、本人より先に鐘を越えた名前の話 ③ 受付の若い書記、執務棟の一階
受付にいた若い書記官は、二十歳を少し過ぎたくらいに見えた。
灰色の書記服を着ている。肩は細い。インクの染みた指先。目の下には浅い隈。朝から何度も同じ確認を繰り返しているのだろう。机の上には、通行記録、荷物の一覧、宿駅から届いた写し、封蝋、砂、小さな鐘が並んでいた。
「通行札をお願いします」
俺は、ロド・カナリと書かれた傭兵札を出した。
書記官は受け取る。
「ロド・カナリ。二十八歳。傭兵」
「ああ」
「東から西へ」
「ああ」
「同行者は」
「記録係だ」
カミラが、自分の札を出す。
「ミラ・パウル。鉱山関係の記録を扱っていた」
書記官は二枚の札を順番に確かめ、最後に俺の札へ戻った。
何かを思い出したように、机の下から別の記録板を引き出す。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
紙をめくる音が続く。
途中で、指が止まった。
顔色も変わった。
「少々、お待ちください」
「何かある?」
俺が訊くと、書記官は周囲を見た。
旅人。
兵士。
火鉢。
列。
それから、声を落とした。
「同名の通行記録があります」
後ろに並んでいた農夫が、小さく息を呑んだ。
「いつ」
カミラが訊く。
低い声だった。
ただし、まだミラ・パウルの声である。
「昨日の昼です」
書記官は答えた。
「ロド・カナリ。二十八歳。傭兵。東から西へ。この門を通過したと記録されています」
「俺は来ていない」
「その確認も含めて、別室で伺います」
書記官は、机の横へ下げられた細い縄を引いた。
門の上で、灰色の鐘が二度鳴る。
書類の照合。
今度は、俺の名前だった。
◇
案内されたのは、門の内側にある執務棟の一階だった。
石壁。小さな窓。机。椅子。水差し。火の入っていない鉄製の火鉢。棚には、日付ごとに束ねられた通行記録が並んでいる。
扉の脇には、北方軍兵が一人立っていた。
制服も、剣も、靴も、よく手入れされている。
黒い外套で顔を隠した男たちとは違う。
正規の帝国兵。
それでも、今はまだ誰を信用してよいか分からない。
若い書記官は、奥の扉へ声を掛けた。
「副書記官。照合案件です」
「入れ」
中には、五十歳ほどの男がいた。
灰色の髪。短い口髭。厚い指。長年紙を扱ってきた人間らしく、右手にはインク染みが残っている。
「灰鐘関所、副書記官のヘルマンです」
男は俺とカミラを順番に見た。
「確認のため、いくつか伺います。座ってください」
俺たちは机の前へ腰を下ろした。
「ロド・カナリ。二十八歳。傭兵。昨日、この関所を通過した覚えはない」
「ああ」
「昨日の昼頃は」
「この関所より東側だ。黒松林の枝道へ入ったのは、それより前になる」
「その前は」
「オストマルク沿岸の港町。十日ほど滞在していた」
「十日?」
「怪我を治すためだ」
「最初から十日間?」
「最初は五日の予定だった」
ヘルマン副書記官の筆が止まった。
「延びた理由は」
少し考える。
「大人の事情」
隣から、カミラの足が俺の靴へ乗った。
ゆっくり。
だが、強い。
「痛い」
「集中しろ」
「している」
ヘルマン副書記官は、俺の顔、カミラ、机の下を順番に見た。
何も言わなかった。
非常に大人だった。
──第三十八部 了




