第三十八部 灰鐘関所と、本人より先に鐘を越えた名前の話 ② 露店と、門の列
灰鐘関所の手前には、薄い茶、黒パン、干し肉、縄、補修用の革、馬へ飲ませる水を売る露店が並んでいた。
通行の順番を待つ旅人は、そこで荷物を整え、札を探し、馬の脚を休ませている。列が長いため、露店の主人たちはいつもより忙しそうだった。
俺たちも薄い茶を一杯ずつ買った。味はほとんど湯だったが、風は少し冷たい。温かいだけで十分である。
カミラは茶を飲みながら、門の脇へ立てられた大きな掲示板へ目を向けた。
通行札、荷車の重量、火種、刃物、疫病、偽造書類。旅人が関所を越える前に知っておくべき注意が、帝国語で細かく書かれている。
その中央には、二枚の命令書が貼られていた。
一枚目には、出所不明の通行札、移送札、補給記録、受領書を発見した場合、現物を保全し、担当部署へ提出すること、独断で焼却してはならないと書かれている。
二枚目には、偽造の疑いがある書類は混乱の拡大を防ぐため、現地で速やかに焼却することと書かれていた。
内容は完全に矛盾している。
それでも、どちらの紙にも帝国の鷲が押され、北方軍の印があり、封蝋の形式も整っていた。
「宿駅の検問所で見たものと同じだな」
俺が言うと、カミラはすぐには答えなかった。
紙の質、印の位置、封蝋、文体、日付、受領印。似たように見える二枚の命令を、順番に確かめている。
「上の保全命令は新しい」
少ししてから、カミラが言った。
「ヴァルター軍監が止め直したものだろう。下の焼却指示は、それより前に届いている」
「古い命令を剥がし忘れた?」
「それだけなら、まだいい」
「違う可能性がある?」
「ああ」
カミラは焼却指示へ顔を近づけた。
「関所長、書記官、北方軍詰所、保安照合室。少なくとも複数の人間が毎日この掲示板を見る。新しい命令が届いたあとも矛盾する指示が残っているなら、誰かが意図的に外していない可能性がある」
「偽物か」
「まだ分からない」
カミラは首を横へ振った。
「本物に見えることと、本物であることは同じではない。ただし、本物だったとしても安全とは限らない。正規の権限を持つ人間が、意図的に燃やせと命じた可能性もある」
紙は制度を動かす。
兵士を動かす。
関所を閉じる。
荷車を止める。
患者を移す。
薬を届ける。
同じ紙が、人間の名前を消すこともある。
「同じ鷲の下に、別の意思がある」
俺が言うと、カミラは頷いた。
「帝国は一枚ではない」
その言葉は、たぶんイタリカにも向いている。監察局に追われても、再審理を潰されても、市民まで捨てる理由にはならない。国家は役所だけでできているわけではない。
簡単ではない。
本当に。
◇
門へ入る列は三つに分かれていた。
中央は荷車。左は徒歩の旅人。右は軍の便。
俺たちは徒歩の列へ並んだ。
少し前にいる農夫は、妻と一緒に小さな荷袋を抱えている。二人ともこの道を何度も通っているらしく、門の上へ視線を向けた。
やがて、灰色の鐘が一度鳴った。
低い音が城壁へぶつかり、丘の間へ広がっていく。
中央の列から大きな荷車が一台外され、積み過ぎた穀物袋を下ろし、車輪と重量を調べ直している。
「一度は、重量超過」
農夫が言った。
「前からの決まりだ」
しばらくすると、鐘が二度鳴った。
今度は徒歩の列から旅人が一人外され、若い書記官が札を何度も見比べ始める。
「二度は、書類の照合」
農夫の妻が言った。
「最近、増えたねえ」
「前は少なかった?」
俺が訊くと、女は頷いた。
「こんなに鳴らなかったよ。偽の札を焼くのか、残すのか、兵隊さんまで揉めている。昨日も、小さな木箱を持った傭兵が半日くらい止められていた」
俺とカミラは、ほとんど同時に農夫の妻を見た。
「傭兵?」
「ああ。若い男だったらしいよ。私は顔を見ていないけど、宿場の人が話していた」
「名前は」
「さあ、そこまでは」
小さな木箱。
昨日。
東から西。
偽のロド・カナリ。
宿駅と検問所で聞いた話が、ここでもつながる。
本人より先に、俺の名前が灰鐘関所へ着いている。
列が少しずつ進む。
門の内側には、鉄製の火鉢が置かれていた。
火は小さい。
だが、灰が溜まっている。
焦げた紙の端も見えた。
書類を処理するための場所なのだろう。
疑わしい札を見つける。
その場で燃やす。
証拠ごと。
すぐに。
簡単に。
カミラは、俺へ顔を向けないまま声を落とした。
「五束は」
「持っている」
「絶対に渡すな」
「ああ」
「私が渡せと言ってもだ」
少しだけ、意味が分からなかった。
「お前が?」
「何かが起きた時、私が捕まるかもしれない。脅されるかもしれない。私の口から渡せと言わせる状況を作られる可能性もある」
カミラは前を向いたまま続けた。
「その時でも、渡すな」
「非常に面倒な同行者だな」
「今さらか」
「護衛料を上げる」
「好きにしろ」
ほんの少しだけ、カミラの口元が動いた。
笑った。
すぐに戻った。
「次の方」
書記官の声がした。
俺たちの番だった。
──第三十八部 了




