第三十八部 灰鐘関所と、本人より先に鐘を越えた名前の話 ① 関所の姿と、深い頭巾
灰鐘関所が街道の先へ姿を現したのは、昼を少し回った頃だった。
丘を越えるたびに道幅は広がり、土を踏み固めただけだった街道は、やがて荷車が二台並んでも余裕を残せる石敷きの道へ変わっていく。北側には黒松の林が続き、南側には冬を越したばかりの麦畑が低く広がっていた。雪解け水を逃がすための溝は東側の街道より深く、ところどころでは石を組んだ古い水路が、新しく整えられた帝国道の脇へ寄り添うように残っている。
まだ、旧五国連合の領域ではない。
オストマルクから西北西へ歩いてきたとはいえ、この土地は昔からグランデル帝国の領内だった。関所を越えたあとも帝国領はしばらく続き、旧リュカリオンを含む旧五国連合の境へ入るまでには、さらに何日か歩かなければならない。
だから、削られた王家の印も、旧リュカリオンの文字も、古い国境石もまだ現れない。
目の前にあるのは、帝国の鷲を刻んだ里程標と、この土地で暮らしている人々の畑だった。
石垣の向こうでは農夫が鍬の柄を直し、少し離れた井戸では母親が水桶を引き上げ、その横で子どもが濡れた縄へ手を伸ばして叱られている。戦争が終わったあとも、国境線が塗り替えられたあとも、誰かは土を耕し、誰かは水を汲み、誰かは子どもへ危ないことをするなと言い続ける。
俺の祖国を滅ぼした国であり、父を処刑した国であり、俺を三年間、奴隷として使った国でもある。
その国の土地で、名も知らない人々が普通に暮らしている。
簡単に憎めれば、もう少し楽だったのかもしれない。
だが、簡単ではない。大陸を歩くほど、敵と味方の境目は、地図へ引かれた線ほど綺麗ではなくなる。
「見えてきた」
隣を歩いていたカミラが言った。
街道の先には、低い丘の間を塞ぐように灰色の城壁が伸びている。戦争のために築かれた大砦というほど高くはないが、長い年月のあいだに何度も増築されたらしく、中央の門の左右には荷車を調べる広場、徒歩の旅人を待たせる小屋、北方軍の詰所、倉庫、書記官の執務棟が並んでいた。
城壁の内側からは、荷運び人の怒鳴り声、馬の鼻息、車輪が石を踏む音が途切れず聞こえてくる。
門の上には、大きな鐘が吊られていた。
雨と雪と煤を長年吸い込み、黒とも白とも言えない鈍い色へ変わった鐘だった。灰を練り固め、そのまま金属へしたように見える。
「灰鐘関所」
カミラは足を緩めずに言った。
「東西を行き来する荷車は、原則として一度ここで記録される。軍の補給便も、商人の荷も、診療所へ向かう薬箱も、患者の移送札も同じだ。旧北路へ入る前に、人と紙が集まる」
「五束を増やすには、都合がいい」
「ああ。ただし、誰へ預けるかは慎重に選ぶ」
「ヴァルター軍監の保全命令が届いていても?」
「軍監が正しい命令を出していることと、関所にいる全員が同じ方向を向いていることは別だ」
カミラは、門の前へ伸びる列へ視線を向けた。
荷車の列は普段より長いらしく、関所の外にある露店の前まで続いている。徒歩の旅人も多い。荷袋を背負った農夫、子どもを連れた夫婦、革袋を肩へ掛けた商人、巡礼者らしい老人が、それぞれ通行札を手元へ用意しながら順番を待っていた。
「正面から入るのか」
俺が訊くと、カミラは迷わず頷いた。
「偽のロド・カナリが昨日この関所へ着いたなら、帳面を見なければならない。小さな木箱を持って西へ抜けたのか、照合で止められたのか、それとも別の人間へ渡したのか。裏道を使えば、自分から手掛かりを捨てることになる」
「お前は、捕まるかもしれない」
「その可能性はある」
「落ち着いているな」
「焦れば、捕まらずに済むのか」
「いや」
「なら、必要な順番で動く」
相変わらずだった。
三日近くまともに眠らず、左肩を傷つけ、五束の紙を抱えたまま追っ手から逃げ続けた女である。それでも、自分が怖いかどうかより先に、何を確認し、何を残し、誰へ預けるかを考えている。
真面目すぎる。融通が利かない。かなり面倒である。
だが、悪くない。
◇
関所へ入る前に、カミラは頭巾を深く被り直した。
今の彼女は、イタリカ監察官カミラ・パヴェルではなく、便宜上、鉱山の記録係ミラ・パウルとして歩いている。短い黒髪と顔立ちを完全に隠せるわけではないが、疲れた旅人へ見せる程度なら十分だった。
ただし、左肩が上がらないため、頭巾の紐は少し緩い。
歩くたびに首元がわずかに開き、汗で肌へ貼りついた黒髪と白い首筋が覗いている。
変装として不十分である。
同行者として、直す必要がある。
本当に。
それ以外の理由は、ほとんどない。
「紐が緩い」
俺が言うと、カミラは歩みを止めた。
「自分で直す」
「右手だけでは、また緩む」
「宿駅では結べた」
「俺が結んだ」
「だから、今回は自分でやる」
「関所へ入る前にほどけたら、余計に目立つ」
カミラはしばらく俺の顔を見た。監察官の目である。俺が純粋な善意だけで申し出ているわけではないことも、おそらく見抜いている。
「紐だけ見ろ」
「俺を何だと思っている」
「今朝、私の下着を広げて乾燥状態を確認していた男だと思っている」
「あれは衛生管理だった」
「顔へ近づける必要はない」
「記憶の定着」
カミラの右足が、俺の靴をゆっくり踏んだ。
「痛い」
「早く結べ」
「国家の危機に私情を持ち込むな」
「国家ではなく、私個人として踏んでいる」
非常に便利な使い分けだった。
俺は頭巾の紐へ手を伸ばした。
黒い髪、白い首筋、少し上げられた顎、鎖骨。かなり近い。
だが、ここで手間取れば、さらに踏まれる。だから俺は、極めて真面目に結び目だけを見た。
主に。
「手が止まった」
「結び方を考えている」
「視線まで止める必要はあるのか」
「安全確認だ」
「何の安全だ」
難しい質問だった。
答えを探している間に、靴へ掛かる重さが増した。
「痛い」
「結べ」
「結んだ」
カミラは自分の右手で紐を確かめたあと、何事もなかったように歩き始める。
俺は少し遅れて、その隣へ戻った。
「少しは信用してもいいと思う」
「今朝のことを忘れるには、まだ時間が足りない」
「乾いていた」
「黙れ」
監察官は怖い。
本当に。
──第三十八部 了




