第三十七部 二人で歩く速度と、本人より先に関所へ着いた名前の話 Another Side:セオドール・グラントの帳面
セオドール・グラントの帳面と、本人が頼んでいない荷物の話
同じ頃。
海路を移動している商船の船室で、テオは転送便へ入っていた帳面の写しを読んでいた。
船は、波の穏やかな海域を進んでいる。窓の外では、帆が風を受けるたびに縄が軋み、甲板を歩く水夫の足音が天井越しに響いた。
帳面は、南側の商館から送られてきたものだった。
表紙には、正式な商取引の照合用であることを示す印が押されている。本文も、荷物の種類、数量、受領者、積替え先、出発日が順番に並び、一見しただけでは不自然なところはない。
ただし。
受領者の欄には。
セオドール・グラント。
そう書かれていた。
テオの正式な名前。
商会の契約書。
帳面。
受領書。
そういう場面でだけ使う名前。
荷物は、黒松脂が二樽。
油布が四巻。
空の紙箱が十二。
薬箱が三。
積替え先は、北向けの陸送便。
テオは、しばらく帳面を見た。
それから、向かい側へ座っている商会の若い書記へ訊いた。
「僕は、この荷を頼みましたか」
「いいえ」
書記はすぐに答えた。
「少なくとも、私が確認できた帳面にはありません。ですが、受領書にはグラント様の名前と、商会の印が使われています」
「印は本物ですか」
「形式は正しいです。ただし、原本は北へ流れたあとです。こちらへ届いたのは写しだけです」
「誰が受け取ったか」
「帳面の上では、現地の代理人です」
「名前は」
書記が、一枚めくる。
「カロ・ディーノ」
テオの指が止まった。
カロ・ディーノ。
シーロの船荷記録にも現れた名前。
死んだはずの水夫。
本人ではない。
だが。
紙の上では、荷を受け取っている。
「写しを増やしてください」
テオが言った。
「一通は商館へ戻す。もう一通は、海路で別の港へ。もう一通は、リヴィアさんへ。全部、同じ便へ載せないでください」
「原本を追いますか」
「追います。ただし、こちらの写しを全部まとめて持たないように」
書記は頷いた。
「それから」
テオは帳面の端へ視線を落とした。
紙の隅。
ごく細い。
青い線。
「この線も写してください」
「何かの照合印ですか」
「分かりません」
テオは答えた。
「分からないので、残します」
窓の外。
海。
帆。
風。
北へ向かった陸送便。
黒松脂。
油布。
空の紙箱。
薬箱。
本人より先に動いた名前。
テオは、帳面を閉じなかった。
紙の上で誰かに借りられた自分の名前が、どこへ荷物を運んだのか。
それを確かめるまでは。
──Another Side 了




