第三十七部 二人で歩く速度と、本人より先に関所へ着いた名前の話 ④ 若い兵士と、灰鐘関所が見える
「なぜ、旧リュカリオンへ向かう」
しばらく歩いたあと、カミラが訊いた。
「王家へ戻るためか」
「違う」
そこだけは。
すぐに答えられた。
「国を取り戻す気はない。王子へ戻る気もない。少なくとも、今は」
「では、何を確かめる」
「昔の国が、今どうなっているか」
丘の向こう。
まだ見えない。
旧リュカリオン。
帝国の最北部。
オストマルクから西北西へ向かう街道の先。
俺が生まれた場所。
父が死んだ場所。
レイラと離れた場所。
「戦争のあと、誰が残ったのか。誰が帝国へ組み込まれたのか。昔の名前が、今も人を縛っているのか。それを見たい」
「妹も?」
カミラが言った。
俺は、少しだけ横を見る。
「知っていた?」
「以前、少し聞いた」
レイラ。
今。
どこにいるか分からない。
アルストラから逃げた可能性がある。
その先。
フィヨルド諸島。
シルヴァス。
あるいは。
旧五国連合のどこか。
まだ。
確かなことは少ない。
「近くにいるとは思っていない」
俺は答えた。
「だが、痕跡があるかもしれない。俺が知らない何年かを、誰かが知っているかもしれない」
「見つけたい?」
「ああ」
少しだけ。
間を置く。
「生きていてほしい」
カミラは、すぐには何も言わなかった。
足元。
街道。
風。
黒松の匂い。
遠くの鐘。
それらを一度受け止めてから、低い声で言う。
「なら、生きて着け」
「努力する」
カミラが、こちらを見る。
目が細くなる。
俺は、少しだけ笑った。
「守る」
「最初から、そう言え」
正確だった。
◇
昼前。
灰鐘関所の手前にある小さな検問所へ着いた。
門と呼ぶほど大きくはない。街道の両脇へ低い石壁があり、荷車を一台ずつ止めるための木柵と、雨を避ける屋根の付いた詰所がある。
正規の北方軍兵が六人。
そのうち二人は、朝の宿駅で見た伍長から送られた伝言をすでに受け取っていた。
「ロド・カナリ」
年長の兵士が、俺の札を見る。
「同名の傭兵が、昨日、ここを通った」
「ああ。聞いた」
「灰鐘関所へ向かった。小さな木箱を持っていた」
「顔貌記録は」
カミラが訊く。
兵士は、少しだけ眉を上げた。
「灰鐘関所で照合する。ここでは、通行時刻と荷物だけを残している」
「焼却指示は」
「届いている」
「保全命令も?」
「ああ」
兵士は、詰所の壁を見た。
二枚の紙。
一枚は、出所不明の書類を保全しろと命じている。
一枚は、偽造の疑いがある書類を現地で焼却しろと命じている。
どちらにも。
帝国の鷲。
北方軍の印。
正しい形式。
「どちらへ従う」
俺が訊くと、年長の兵士は少しだけ息を吐いた。
「今は、ヴァルター軍監の保全命令を優先する。焼却はしない。疑わしい書類は、灰鐘関所へ送る」
「現場で揉めた?」
「ああ。昨日までは、燃やした方が早いと言う者もいた。だが、紙を燃やせば、誰が偽造したかも消える」
兵士は、壁へ貼られた二枚を見た。
「同じ鷲の下で、違う命令が走っている。面倒な話だ」
「帝国は、一枚ではない」
カミラが言う。
年長の兵士は、頭巾を被った女へ視線を向けた。
「記録係にしては、よく分かっている」
「紙を扱ってきた」
「そうか」
兵士は、それ以上追及しなかった。
ただし。
完全に納得した顔でもない。
大人だった。
本当に。
◇
検問を越える前に、若い兵士が俺へ声を掛けた。
「傭兵」
「ああ」
「肩を庇っている」
「少しだけ」
「灰鐘関所までは、まだ歩く。無理をするな」
「最近、よく言われる」
「守れる速度で歩け」
少しだけ。
足が止まる。
港町の女将。
白髭の御者。
カミラ。
サンドル。
いろいろな人間から。
少しずつ。
同じことを言われる。
若い兵士は、俺の過去を知らない。
祖国を滅ぼした国の制服を着ている。
それでも。
道を歩く傭兵へ。
普通に。
生きて通れと言う。
簡単ではない。
本当に。
「分かった」
俺は答えた。
「守る」
若い兵士は頷き、木柵を開けた。
◇
灰鐘関所が見え始めたのは、昼を少し回った頃だった。
街道は丘を越えるたびに幅を広げ、荷車が二台並んでも余裕を残せる石敷きの道へ変わっている。その先には、灰色の城壁が低い丘の間を塞ぐように伸び、門の上には、雨と雪と煤を吸い込んだ大きな鐘が吊られていた。
敵軍を完全に止めるための大砦ではない。
人と荷物と紙を、一度立ち止まらせるための関所。
灰鐘関所。
旧五国連合の領域は、まだ先である。
関所を越えても、しばらくは元からのグランデル帝国領が続く。
昔の国境石も。
削られた王家の印も。
旧リュカリオンの文字も。
まだ現れない。
それでも。
俺より先に。
俺の名前は。
すでにあの鐘へ着いている。
「行くぞ」
カミラが言った。
「ああ」
「本人より先に歩いた名前へ、追いつく」
五束の紙は、俺の革袋の中にある。
カミラは、隣を歩いている。
一人旅は終わった。
だが。
帰る旅が始まったわけではない。
まだ。
俺たちは。
入口へ着いただけだった。
──第三十七部 了




