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第三十七部 二人で歩く速度と、本人より先に関所へ着いた名前の話 ③ 街道の対話、二人で歩く速度

 詰所を出ると、朝の光はすでに街道まで届いていた。

 西へ向かう荷車が一台ずつ宿駅を離れ、御者の掛け声と車輪の音が重なる。修理場では、壊れた車軸へ新しい楔を打ち込む音が響き、炉から上がる煙は風に流されて東へ薄く伸びていた。

 俺たちは、宿駅の端にある井戸へ寄った。

 水筒を満たす。

 カミラは、五束の紙を預けた革袋の紐を確かめる。

「本人より先に、名前が歩いている」

 俺が言うと、カミラは水筒の蓋を閉めながら頷いた。

「ああ」

「ロド・カナリを使うようになったのは、最近だ」

「帝国内の病院と、海路の記録へ載った」

「それだけで十分?」

「使う側から見れば、十分かもしれない。生きている人間の名前で、年齢も職業も履歴もある。しかも、本人は帝国内を歩いている」

「便利な名前だな」

「便宜上、使っている名前だからな」

 少しだけ。

 苦く笑う。

 自分で選んだ偽名。

 必要だから着た名前。

 それが、今は俺より先に西へ向かっている。

「灰鐘関所の先へ進めば」

 カミラが言った。

「偽のロド・カナリが、何を運んだか分かる可能性がある」

「小さな木箱」

「ああ。薬箱でも、紙箱でもない。わざわざ傭兵へ持たせる程度の大きさで、関所を越える必要がある物」

「印章?」

「可能性はある」

「断定しない」

「早く答えを作った人間から間違える」

 昨日も聞いた。

 たぶん。

 これからも何度も聞く。

 監察官の言葉。



 ◇



 宿駅を出たあと、街道は少しずつ高度を上げていった。

 北側には黒松の林。

 南側には畑。

 その間を、石と土で固められた道が西へ続いている。

 遠くへ目を向けると、丘の向こうに灰色の城壁がかすかに見えた。

 灰鐘関所。

 まだ距離はある。

 それでも。

 門の上に吊られた鐘の形は、ここからでも分かる。

「昨日、元王子だと言ったな」

 隣を歩くカミラが言った。

 食堂で、宿帳へ名前を書いた時。

 俺が口を滑らせた言葉。

 聞き間違いではない。

 たぶん、追及する順番を待っていたのだろう。

「ああ」

「旧リュカリオン?」

「ああ」

 答えると、カミラは少しだけ前を見たまま歩いた。

「レオン・ヴァン・リュカリオン」

 自分の名前が。

 他人の口から出る。

 久しぶりではない。

 リヴィアにも。

 テオにも。

 マリノにも。

 必要な時には名乗った。

 長い間、誰にも呼ばせなかったわけではない。

 それでも。

 帝国の街道で。

 灰鐘関所を前にして。

 カミラの口から聞くと。

 少し違う。

「知っていた?」

「名前だけは」

 カミラが答えた。

「旧リュカリオンの王子。帝国との戦争で国を失い、その後の所在は不明。死んだという記録も、生きているという噂もあった」

「随分、曖昧だな」

「亡国の王族は、噂だけ増える」

「今は、便宜上、傭兵だ」

「便宜上ではないだろ」

 少しだけ。

 言葉が止まる。

 正確だった。

 傭兵は。

 偽名ではない。

 国を失ったあと。

 奴隷施設から救い出されたあと。

 生きるために選んだ仕事。

 戦場の歩き方。

 剣の振り方。

 報酬の交渉。

 逃げる時の判断。

 全部。

 俺の中へ残っている。

「傭兵として生きてきた」

 俺は言った。

「ああ」

「王子だった時間の記憶よりも、もう長い気さえする」

「王子だったことが消えるわけではない」

「消えないな」

 歩きながら。

 少しだけ。

 息を吐く。

「十八で国が滅びた。捕まって、帝国の奴隷施設へ入れられた。三年くらいは、そこで働いた」

 カミラの歩幅が、ほんの少しだけ変わった。

「鉱山か」

「鉱山だけではない。石。木材。土。運べと言われた物を運んだ。誰が何のために使うかは、教えられない」

「二十一で出た?」

「ああ」

「逃げたのか」

「助けられた」

「サンドルに?」

 俺は頷いた。

「たぶん、あいつは三年間、俺を探していた。最後には、一人で施設へ来た」

「一人で?」

「詳しいことは、あまり話さない。聞いても、必要なことだけ答える。家令だからな」

 リューリック。

 本当の名を。

 ここでは、まだ出さない。

 誰が聞いているか分からない街道で、必要以上に紙へ載せる名前を増やす理由はない。

「それから、ずっと一緒だった?」

「ああ。王子だった頃も、周りには人がいた。奴隷の頃も、一人になれる場所はほとんどなかった。助けられたあとも、サンドルが隣にいた。だから、今回みたいに長く一人で歩いたのは、たぶん初めてに近い」

「それで、港町に十日」

「回復と情報収集のためだ」

「大人の事情も」

「一部」

 カミラは、ほんの少しだけ目を細めた。

「かなりでは」

「一部だ」

「顔が違う」

「監察官は怖いな」

 少しだけ。

 空気が戻る。

 重い話をしたあとでも。

 全部を重いまま抱えて歩く必要はない。

 たぶん。

 カミラも、それを分かっている。



 ──第三十七部 了


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