第三十七部 二人で歩く速度と、本人より先に関所へ着いた名前の話 ② 巡察詰所と、伍長
宿駅を出る前に、巡察詰所へ立ち寄った。
昨夜、東の宿駅へ戻した白髭の御者が、捕らえた男を正規の帝国巡察へ引き渡したはずである。その情報が西側へ届いているかを確かめておく必要があった。
詰所は、宿屋と馬小屋の間にある小さな石造りの建物だった。
入口には、グランデル帝国北方軍の鷲が刻まれている。扉の脇へ立つ兵士の外套も、靴も、槍も、きちんと手入れされていた。
黒い外套で顔を隠した男たちとは違う。
制服。
装備。
立ち方。
それだけで、正規軍であることが分かる。
ただし、正規軍だから必ず信用できるとは限らない。
昨日、捕らえた男の瞳は、灰鐘関所という言葉へ反応した。
カミラは詰所へ入る前に、頭巾を少し深く被った。
「ミラ・パウル」
俺が言う。
「ああ」
「肩は」
「動く」
「痛みは」
「かなり残っている」
正直だった。
少しだけ。
良い変化である。
「無理に腕を上げるな」
「分かっている」
「荷物は」
「持てる」
「五束は俺が持っている」
「確認しただけだ」
カミラは革袋へ一度だけ視線を向け、それから詰所の扉を押した。
◇
詰所の中には、四人の兵士がいた。
奥の机へ座っているのは、三十代半ばほどの伍長だった。短く刈った髪、日焼けした顔、左眉の近くにある古い傷。机の上には、通行記録、宿駅から届いた報告書、封蝋を切ったあとの封筒が並んでいる。
「通行札を」
伍長が言った。
俺は、ロド・カナリと書かれた傭兵札を出した。
カミラも、ミラ・パウルという名の札を置く。
伍長は二枚を順番に読み、俺の札へ戻った。
「ロド・カナリ」
「ああ」
「二十八歳。傭兵。東から西へ」
「ああ」
「昨夜、東側の宿駅から報告が届いた。黒松林の枝道で、薬箱と紙箱を積んだ荷車が襲われ、白髭の御者を助けた傭兵がいる」
「俺だ」
「黒髪の女もいた」
「同行者だ」
伍長はカミラを見る。
「記録係?」
カミラが答える。
「イタリカ側で鉱山関係の記録を扱っていた」
「肩は」
「枝道で負傷した」
「治療は」
「済ませた」
必要なことだけを答える。
嘘は少ない。
全部を話す必要はない。
伍長は、しばらくカミラを見たあと、机の脇へ置いていた報告書を開いた。
「捕らえた男は、東側の宿駅で引き渡された。御者が、単独の兵士へは渡さないと言い張ったらしい」
「正しい判断だ」
カミラが言った。
「引き渡しの記録は」
「宿の主人、旅人二人、巡察兵三人の前で作った。受領者の名前、時刻、持ち物も残している」
「黒松脂の小瓶、紙片、青い細線、木片」
カミラが言うと、伍長の眉が少しだけ動いた。
「聞いている」
「燃やしていない?」
「軍監から保全命令が来た」
「ヴァルター軍監?」
「ああ」
伍長は机の上にある封書へ指を置いた。
「出所不明の通行札、移送札、補給記録、受領書、命令書は、独断で焼却するな。原本を保全し、写しを複数へ分けろ。処理した人間の名前と時刻も残せと」
カミラは、すぐには答えなかった。
頭巾の下で、目だけが少し動く。
「速いな」
俺が言うと、伍長は頷いた。
「軍監は、紙を燃やしたがる人間がいると見ている」
「帝国軍の中に?」
「分からん」
伍長は、慎重に答えた。
「だから調べる。偽物なら、誰が帝国の形式を知っているかを追う。本物なら、誰が帝国の名で燃やせと命じたかを追う」
敵国。
帝国。
正規軍。
地下網。
一枚ではない。
本当に。
◇
伍長は、俺の傭兵札をもう一度見た。
「ただし、もう一つある」
「何だ」
「ロド・カナリという名の傭兵が、昨日の昼、この宿駅を通っている」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
俺はすぐには答えなかった。
カミラも、横から口を挟まない。
「顔を見た?」
俺が訊く。
「俺ではない。前の当番が対応した。若い男。東から来て、西へ向かった。同行者はいない。革袋と剣、それから小さな木箱を持っていた」
「小さな木箱」
カミラが低い声で言う。
「ああ。関所で照合が必要になるかもしれないと伝えたら、灰鐘関所まで行くと言ったらしい」
「札は」
「記録上は問題ない」
「記録上は?」
カミラが拾う。
伍長は、机の下から控えを出した。
「ロド・カナリ。二十八歳。傭兵。東から西。札の発行地も、形式も、署名も整っている」
俺の札と。
同じ。
少なくとも。
紙の上では。
「写しを見せてくれ」
カミラが言った。
伍長は、少しだけ迷った。
「同行者へ見せる記録ではない」
「顔貌記録があるかを確認したい」
「なぜ」
「同姓同名の別人か、札の複製か、転記の誤りか。それを分けずに話を進めれば、灰鐘関所でも同じ混乱が起きる」
カミラの声が、少しだけ変わった。
ミラ・パウルという旅の記録係。
だが。
その奥。
監察官。
紙の上で人間を消されることを知っている女。
「顔を見ず、札だけで通したなら、本人確認とは言えない。名前が同じだから同じ人間だと決めれば、紙を使う側の思う壺になる」
伍長は、しばらくカミラを見た。
「記録係にしては、詳しい」
「紙を扱ってきた」
「鉱山で?」
「ああ」
嘘ではない。
全部でもない。
伍長は、控えを机の中央へ置いた。
「公開できる範囲だけだ」
カミラは紙へ顔を近づけた。
名前。
年齢。
傭兵札。
同行者なし。
革袋。
剣。
小さな木箱。
通過時刻。
そして。
紙の端。
細い。
青い線。
「同じだ」
カミラが言った。
「黒松林で捕らえた男の紙片と、同じ幅?」
「ほぼ」
「ヴィクトルの青いインクではない?」
「違う。記事を流すための青いインクとは役割が異なる。これは、何かを識別するための細線だ」
伍長が訊く。
「知っているのか」
「断定はできない。ただ、燃やさず残せ」
「そのつもりだ」
カミラは、控えから顔を上げた。
「灰鐘関所へ行く」
「こちらも、照合が必要だと考えている」
伍長は答えた。
「だが気をつけろ。関所には、焼却指示と保全命令の両方が届いている。現場で、どちらを優先するか判断が割れている可能性がある」
「同じ帝国の鷲で?」
「ああ」
伍長の顔には、疲れがあった。
自分の国の印を押した紙が、互いに矛盾している。
兵士として。
簡単ではない。
本当に。
──第三十七部 了




